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カスタードプディングは甘すぎる(前編)

ゴールデンウィーク特別蔵出し企画。プリンはどうして消えた?(2021年作)

 冷やし中華はじめました――気温が二十五度を超える頃には当たり前に見かけた旗を、今年は見ただろうか? キュウリを細切りにしながら、日下陽介はふと思う。インフルエンザ同様に季節性ウイルスであることを望まれた新型感染症は、夏になっても収束には向かっていない。
 それでも、ステイホームを心掛け、みんなが気を配ってきたおかげか、グラフ上では抑え込めているように思える。PCR検査の補助アルバイトをしている同居人、桂月也の帰宅時間も、最近は早い方で安定していた。
 だからたぶん、今年の夏も冷やし中華は始まっているのだろう。
 ひらめく旗の記憶がないのは、陽介が関心を向けていないからだ。飲食店やコンビニで買おうとは思わない。冷やし中華なら、自分で作った方が安上がりだ。
 トマトのくし切りを終えた陽介は、錦糸玉子の準備に取り掛かる。フライパンは使わない。大きめの平皿とラップを用意して、電子レンジで作った方が、綺麗な黄色を出せるからだ。油を使った汚れ物を減らすこともできる。
(ハムも買えればよかったんだけどなぁ)
 親を頼らずに生活する大学生では、ハムまで入れると予算オーバーだった。その分のボリュームを、卵の個数を増やすことで誤魔化せればよかったのだけれど。卵も脳内レシピの分量だけを溶き、電子レンジへとかける。
 直後。玄関の重い鉄の扉が軋んだ。
 足音はまっすぐには向かってこない。寄り道は手洗いとうがいのためだ。この半年ほどで強化された習慣に、陽介はたまらず苦笑した。
「ただいま。お土産」
 ひょろり、とキッチンに現れた真っ黒な癖毛からは、タバコの香りが漂う。眼鏡越しに見上げた陽介は、もう一度苦笑しながらコンビニのレジ袋を受け取った。
「おかえりなさい。あ、プリンですね」
 プライベートブランドのプリンには、三十円引きという赤いシールが貼られている。一個しかない理由は、同じ袋に入れられた、ビニールゴミから推測できた。月也はきっと、タバコを買うついでにプリンを買ったのだ。
「ありがとうございます」
 ついでだったとしても、素直な気持ちで感謝を伝え、陽介は冷蔵庫に向かいかける。そのタイミングで電子レンジが終了を報せた。気持ちを持っていかれ、陽介はプリンを電子レンジの上に置く。先に、錦糸玉子を済ませることにした。
「冷やし中華?」
「はい。麺を茹でたらすぐ出来上がりますから、先輩は本でも読んでいてください」
「家政夫って便利だよな」
「はぁ?」
「冗談」
 悪魔のようにケラケラと笑いながら、月也はキッチンを出て行く。陽介は口をへの字に曲げると、沸騰したお湯の中に麺をほぐし入れた。
(バイト見つけないとなぁ)
 これまで勤めていた飲食店は実質クビだろう。理科大学のキャリアを活かしPCR検査センターで働き始めた月也のように、学部を活かせればいいのかもしれない。
 けれど、陽介は教育学部だ。塾や家庭教師も、新型感染症の中ではアルバイトなど歓迎していない。
「………」
 ふきこぼれそうになった鍋にため息を吹きかける。食費はほとんど月也の収入に頼っている。これでは家政夫というよりも主夫だ。それも、大学が門を閉ざしている以上、ほとんど専業と言っていい。
(負担だろうなぁ)
 アルバイト収入で他人まで食わせるのは、容易なことではないだろう。その分の金で、月也なら、好きな物理の本でも買いたいと思うかもしれない。
 気が滅入る。
「あー、駄目だ」
 呟いて、陽介は両手で軽く頬を叩いた。こんな不安な気持ちで作ったら、料理も不味くなるだろう。せめて日々の食事くらいは完璧にこなさなければ。働いている分、月也の分量を多くして。
(ハムがないのは惜しいけど)
 それでも、月也を満足させる自信はあった。パンデミックの前からずっと、一緒に暮らしていれば味の好みも把握できるというものだ。
 陽介の予想通り、月也は麺の断片すら残さないで完食する。とはいえ、素直に「美味しい」とは言わないのが、桂月也という男だけれど。
「ハム、欲しかったな」
「ベランダ菜園が許可されれば、その分の食費で買えるんですけどね」
「………」
「冗談です。昼のうちにミカンの缶詰でシャーベット作ったんです。エアコン代節約もかねてベランダで食べましょう」
 夕食の皿を下げて、デザートの準備をする。蚊取り線香と、月也の加熱式タバコのにおいが混じり合うベランダで、じっとりとした夜をやり過ごす。
 去年と変わらない、夜の日常。
 本格的な熱帯夜が始まるまでの、期間限定の夜。
「こうしてると平和な気がするんですけどねぇ」
 それこそすべてが夏の夜の夢となって、新型感染症などない明日が来るような、そんな錯覚さえ感じるけれど。
「ばーか」
 白い煙を吐き出す月也の方が、トリックスターよりも現実主義者だと言えた。
 あるいは。
 完全犯罪にあこがれを抱く彼だからこそ、明日が平和ではないことを、敏感に察知したのかもしれない。
 いや、より正確に言うならば「犯人」になることを、予期していたのだろう。
 ――翌日。
 二人しかいない家から、三十円引きのプリンが消える。


カスタードプディングは甘すぎる(後編)|山吹あやめ (note.com)