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カスタードプディングは甘すぎる(後編)

ゴールデンウィーク蔵出し企画。消えたプリンに隠された真相は……(2021年作)

「――犯人は先輩以外あり得ないでしょう!」
「だから、俺は食ってねぇって」
 星の見えない曇った空へと、月也は呆れた様子で煙をのぼらせた。言葉の端々には「しつこい」という感情が滲んでいる。
 陽介としても、疲れて帰宅した月也を、しつこく問い詰めたくはなかった。けれど、自供と謝罪が得られないのだから仕方がない。
 氷を浮かべた紅茶で喉を冷やし、気持ちも落ち着けてから、陽介はもう一度だけと繰り返す。
「いいですか、先輩。この家には僕と先輩しかいないんです。そこからプリンが消えた……どう考えても先輩が食べた以外にあり得ないでしょう」
「だーかーら」
 ベランダで快適に過ごすため、感染症下での暇潰しに置かれたアイアンテーブル。その上へ面倒くさそうに加熱式タバコを置いた月也は、白いマグカップを手に取った。一口喉を潤してから、陽介には羨ましい長い脚を組み替える。
「俺は何べんも食ってねぇって言ってるだろ。それなのにお前ときたら、ちっとも信じようとしねぇのな。そこまで疑う以上、俺が食ったって確かな証拠があるんだろうな?」
「そんなの。証拠なんて状況証拠だけで充分でしょう。外部犯がいないことは僕が証明します。ずっと家にいましたし……先輩だって、自分で鍵開けて入ってきたでしょう? 外部の犯行が不可能で、僕が食べていない以上、消去法で考えても同居人の桂月也が犯人になるじゃないですか」
「どうだかな」
 月也は暗い目を細め、白いマグカップを傾ける。からん、と氷の音が響いた。
「俺はまだ『プリンが食べられた』って証拠を見ちゃいねぇけどな」
「そりゃあ、とっくにゴミ袋に放り込まれてるでしょうからね」
「そのゴミは?」
「もう出しちゃいましたよ。今日、燃えるゴミの日でしたから」
「つまり、『食べられた』と断言できる証拠はもう、どこにもねぇってわけだ。証拠もないのに犯人呼ばわりとは随分だな。そもそも陽介、お前はちゃんと見たのか? 食べられてからっぽになったプリン容器」
「……いえ」
 ゴミを出すとき、いちいち中など確認しない。いくら家事にズボラな月也でも、さすがに燃えるゴミと燃えないゴミを一緒にするほど無頓着ではない。プリン容器は洗って資源ゴミというクレームは入れたいところだけれど、幸いにして、自治体はそこまで神経質ではなかった。まして新型感染症以来、清掃員への感染を危惧して、ペットボトルすら燃えるゴミに入っていても許されるくらいだ。
「見てないんじゃあ、『食べられた』って前提すら危ういじゃねぇか」
「でも……」
 陽介は軽く唇を噛みマグカップに視線を落とす。黒いマグカップの中は夜そのもののようだ。室内灯をちらちらと反射して、氷が星のようにきらめいていた。
 でも――プリンはどこにもない。
 キッチンの冷蔵庫はもちろん、月也の部屋に設置された冷温庫の中にもなかった。掃除機をかけた範囲でも見てはいない。
 プリンは確かに、二人の家から消えていた。
「……釈然としません。先輩なんて犯罪者志望だし」
「完全犯罪を目指すからこそ、こんなくだらないことで犯人にはならねぇんだよ」
「どういう理屈ですか」
 まったく、と陽介は呆れと苛立ちをアイスティーで飲み込んだ。そうして少し落ち着いてみると、理解しがたい月也の理屈にも、道理があるように思えた。
 犯行としては、あまりにお粗末だ。
 二人しかいない家。一つしかないプリン。一人が食べればもう一人は食べられない。そんな状況下でプリンが消えれば、必然的に犯人は定まる。
 プリンを食べた犯人は、食べていないもう一人ではない同居人……。
「仮に月也先輩が犯人だとして」
「『仮』にしてくれるんだ」
 くすくすと月也は笑う。三日月のように歪な口元で。そこには明らかに「秘密」が感じられたけれど、それが何かまで、陽介には分からなかった。
「絶対犯人だとは思ってますけど! それでももう少し論理的に状況を判断する必要性はあると思うんで。まずは犯行時刻ですが……」
「陽介が寝てから起きるまで。午前一時から六時半までの五時間半ってところか」
「でも昨日は、先輩の方が先に寝室行きましたよね。確か零時前でした。なのによく僕が一時まで起きてたって知ってますね」
「布団でスマホいじってたからな、寝てたわけじゃねぇんだよ。いつの間にか落ちてたから、何時に寝たかまでは分かんねぇな」
「起きてきたのは、というか、僕が起こしたのが七時ごろ。それまでに起きたりは?」
「んー、黙秘かな」
「アリバイなし、と」
 深く頷いて陽介はアイスティーをすすった。テーブルを挟んだすぐとなりで、ケラケラと月也は笑う。
「それで名探偵。ハウダニット、ホワイダニットはどう考える?」
「僕は名探偵じゃないですけど……ハウダニットは、スプーンを使ってって話ですか? 洗い物が出てませんでしたから、コンビニがくれたスプーンを使って、空容器と一緒に捨てたんでしょう。動機については食欲を満たすため以外に何かあるんですか」
「だから。俺は食べてはいないんだよ」
 からかうように目を細めた月也は、新しく加熱式タバコをセットする。ふわりと吐き出した煙の行方を見届けてから、
「ほんと。陽介の眼鏡は曇ってんなぁ」
「曇るような事件でもないと思いますけど」
「まあ、いいよ。俺としてはそのまま、曇っててくれた方が気楽だからな」
「………」
 ひゅうっと口笛のように煙が飛ばされた。あっさりと夜闇に消えたその中に、陽介は引っ掛かりを覚える。
 月也の態度は、ちょうどこんな煙のようだ。そこに「ある」と思った時には形を変え、ゆらりと姿をくらましてしまう。まさに「煙に巻く」ように。
 それでいて、タバコのにおいのようなしつこさも伴っている。どうして、こうもしつこく食べたことを否認し続けるのだろうか……。
(もし、本当に、『食べていない』のだとしたら)
 例えば、食べることなく消した――捨てたのだとしたら。ホワイダニット。どうして、そんなことをしたのだろうか。動機は?
「……あ」
 溶けて丸みを帯びた氷のきらめきを見つめていた陽介は、たまらず眉を寄せた。そうして、マグカップの表面を伝う結露を、左の指先で拭った。
「真犯人は僕だったんですね」
「………」
「そして。共犯者はこの『気温』です」
「さあねぇ」
 月也は煙を吐くように短く笑うと、白いマグカップを揺らす。カラカラと頼りない氷の音を鳴らしてから、静かに口に含んだ。
「……すみません。犯人呼ばわりしてしまって」
「いや。ある意味俺も共犯者だろ。『遺棄』に関わってんだから」
「でも。どうして素直に教えてくれなかったんですか?」
 遺棄――プリンを捨てた理由を、月也は語ろうとしなかった。それを隠すことなく告げてくれていれば、陽介もここまでしつこく犯人とは言わなかっただろう。
「俺は素直じゃねぇからな」
「僕のため、ですか?」
「………」
「そうですか」
 月也の沈黙を肯定と受け取って、陽介は微かに笑った。
 二人しかいない家からプリンが消えた事の顛末は、些細な偶然の積み重ねによるもの、とでもなるのだろう。
 昨夜、月也が気まぐれに買ってきたプリンを受け取ったタイミングで、電子レンジが過熱の終了を報せた。そのことに気を取られた陽介は、あとで仕舞えばいいと、電子レンジの上に置き忘れてしまった。
 早朝、陽介が起きだす前。月也はそのプリンを発見する。じめじめと湿度が高く、夜でも気温が下がりにくくなっている中、常温に放置されたプリン。三十円の値引きシールが貼られていなかったとしても、消費に耐えられるとは思えない。
 安全性が疑わしくなってしまったプリンは、月也の手によってゴミ袋へと捨てられる。そう、確かに彼は「食べていない」のだ。
 ゴミとなったプリンは、その最後を確認されることなく、ゴミステーションへと運ばれて――
「せっかく先輩がくれたプリンだったのに、無駄にしてしまいました」
「……じゃあ、今度は陽介が作ればいいだろ」
「でも。先輩の味覚に合わせると、カラメルソース抜きになるじゃないですか。ほろ苦さと合わさってこそのプリンだってのに」
「えー、カラメルって邪魔じゃね?」
「お子様」
「だったらいっそ、プリン・ア・ラ・モードとかできねぇの? あとさ、クリームソーダとかグラタンとか。パフェならチョコバナナがいいな。コーンフレークでのかさ増しはなしで」
 子どもに好かれそうなメニューを注文する月也の手には、子どもには無縁の加熱式タバコが握られている。そんな、ちぐはぐな彼を横目に見やり、陽介は軽く肩をすくめた。
「僕は純喫茶のマスターじゃないですよ」
「でも、作れるだろう?」
「……生クリームが必要な注文ばかりですね。冷やし中華のハムすらケチるような家計には、ちょっとハードルが高いですね」
「もっと稼がねぇと駄目か」
「僕が――」
「俺はさ」
 陽介を遮った月也の目は、曇った夜空を向いていた。いや、おそらく。雲の向こうの星空へと向けられていた。
「理科が好きなわけだよ。専攻は物理だけど、DNAやら疫学やらの生物系だって興味深い。あとさ、センターだと白衣着れるんだよ。基本、湿った実験のない理論物理学系だと着ることねぇんだけど。やっぱ白衣ってラベルはエレガントだよな、いかにも科学者ですって感じで」
「月也先輩似合いそうですよね、白衣」
「マッドサイエンティストって言いたいんだろ」
「分かります?」
「お前はなぁ」
 不満そうに月也は口を曲げる。けれどそれは、瞬きのうちには微かな笑みへと変わっていた。
「だから別に、俺は誰かのために働いてるわけじゃねぇ。感染者数がどうだ検査数がどうだってのも上が勝手に騒いでるだけで関係ない。苦労も疲労もないって言えば、それは嘘だけどな。それでも、理科のそばにいられるってだけで気分がいいんだ。そのうえ金までついてくるってんだから、このご時世にしちゃあ運がいい」
「………」
「陽介も、それくらい気楽に構えてりゃいいんじゃねぇの。好きな料理を仕事にしてるって。ま、客は俺一人だけど」
「充分過ぎるほどの上客ですね」
「だろ?」
 ケラケラと月也は笑う。陽介も少しだけ声を出して笑うと、アイスティーを飲んだ。つるりと入り込んできた氷をかみ砕いてから、そっとため息をこぼす。
「バレてましたか」
「まあな」
 長い脚を持て余すように立ち上がり、月也は錆びた落下防止柵へと向かった。投げ出すように両腕を垂らし、陽介に背を向ける。それはたぶん、表情を見せないためだったのだろう。
「俺の知ってる日下陽介って奴は、食べ物を粗末にはしないからな。たとえ後回しにしたとしても、仕舞い忘れるなんてへまはしねぇ。それをやらかすほどに、心がどっかに行ってたんだろうなあってなぁ」
「………」
「家を守ってるお前は、充分立派だよ」
「……月也さんって、おれには甘いよね」
「そりゃあ、俺はお子様の甘党ですからね」
 くすくすと笑いながら月也は首を反らした。宇宙の真理を追い求めるその目は、どんなに暗くとも、強い力を秘めている。その眼差しを思い出しながら、陽介はそっと瞼を伏せた。
 気楽に、好きを仕事にしていれば――それもまた、簡単なことではないけれど。少しくらい、甘やかされてもいいのかもしれない。
 立派、という言葉をもらったのだから。
「明日の夕飯は喫茶店メニューにしましょうか。メインはオムライスとナポリタン、どちらがいいですか?」
「んー、やっぱナポリタンかな」
「じゃあ、サラダはポテトサラダで。オニオンスープも添えましょう。もちろんデザートは――」
「プリン」
 声を重ねる二人の間を、生ぬるい風が吹き抜ける。


本編:文庫(全4巻)&コミック(1巻~)