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春 塩酸 窓辺にて

 ある日の晩、私は自転車を押しながらとぼとぼと家路を辿っていた。春の陽気が眩しい昼間とは打って変わって、夜というのはなかなか静かなものだ。桜などはもう幾らか散ってしまったかとセンチメンタルに浸る私の、自転車のちりちりとした音だけが、暗い夜道に数デシベルの賑わいを与えていた。
 しばらく歩くと小さなトンネルが見えた。上を線路が走っていて、私はここを通るときに電車が来ると何故かワクワクとして好きなのだ。あのガタゴトは聞けるだろうかと胸を膨らませていると、ふいに視界に違和感を感じた。いつも使う帰路だ、何か異常が有るなら一大事である。足を止め、あたりを見渡すと、違和感の原因を見つけた。

これである。

これ。

これ、あれだ。

理科の実験で塩酸とか使う時のやつだ!

 帰り道 我が独り身と 保護メガネ

やまなか

あまりの衝撃に思わず一句読んでしまう始末である。

 なんだ、と思うだろうか。死体でも転がってるのかと思ったのにと。だが考えてみてほしい。こんな事ないだろ。保護メガネが金網にかかってるなんて事
 保護メガネが道端に落ちているはずがない。保護メガネが学校の理科室以外に存在しているわけがないからだ。その点死体の方がまだ転がっている道理がある。死体の素(つまり生物)はどこにでも存在しうるからだ。しかし保護メガネとなるとそうはいかない。保護メガネを個人所有している奴なんてこの時空には存在していない。少なくともこの世界においては保護メガネは保護メガネ製造工場と理科室にしか存在できないのだ。つまりこれは並行世界の保護メガネを個人所有している人間が置いていったものなのだ。マルチバースは存在した!

 たとえ渋々マルチバース説を否定したとしてもこれは異常事態である。これがここにかかっているということは、ここで目を保護しなければならないほどの劇薬が使用されたという事になる。いったいいつ?誰が?どうして?
 思うに『不法投棄厳禁』の看板がこの事件のキーパーソンであろう。つまりこの保護メガネは不法投棄を隠蔽するために使われたというわけだ!

 事件のあらましはこうだ。
 この辺りに住む住人の一人は不法投棄を繰り返していた。不要になった家具や家電を、夜中のうちにトンネル脇にとりあえず置いておく。あとは知らんぷりを決め込んでいればいずれ誰かが片してくれる、そんな楽なガラクタ処分をその住人は気に入っていた。そのうちに『不法投棄厳禁』の看板が設置されたが住人は気にしない。バレなければそれで良い。そうタカを括っていた。しかし、その平穏な日々は突然に終了した。見られた。冷風しか出なくなった電気ストーブを投棄するその瞬間を、近所のアパートに暮らす大学生に見られてしまったのだ。冷静な心理状態なら、なんとか誤魔化そうとかそもそもその大学生は不法投棄云々に興味はないだろうと言った思考になる所だが、もはや住人はパニックに陥ってしまっていた。バレてはいけない。そんな強迫観念に任せて、今まさに捨てようとしていた電気ストーブで大学生の頭を強く強く殴りつけた。さっきまで大学生だったものの処理は簡単だった。中学校の理科教師だった住人にとって、硫酸を手に入れることはそう難しくは無かった。家の風呂場で溶かしたドロドロの大学生を、トンネル脇の排水溝に流す。住人の最後の不法投棄は、こうして幕を閉じたのだった…。

 どうしよう、結局のところ死体は転がっていたらしい。死体が転がっていた道を帰り道にするのは気まずいので、急いでこの場から去り、別ルートを探ろうと思う。最後にもう一枚だけこの保護メガネを撮っておこうと思う。はい、チー…あ!誰か来た!え!?ストーブ持ってる!やばいやばい!にげ、逃げます!さようなら!


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