見出し画像

【演劇】あるもんで演劇

特定非営利活動法人『静岡あたらしい学校』の《あるもんで演劇》を観てきた。

 静岡駅からバスで40分ほど揺られ、辿りつた会場は想像以上に自然に囲まれた素晴らしい場所だった。美しい安倍川と、めちゃめちゃ近くにそびえ立つ山、山、山、が印象的な『安倍ごころ』という交流センター。集会室には小さな舞台に幕がひいてあり、その舞台に向かうように並べられたパイプ椅子の観客席は、子供の発表会を彷彿とさせた。

 開幕してすぐ、正直、私はちょっともやっとヒヤヒヤした。この『あるもんで演劇』は非認可スクールが一年通して学んだ『演劇』の集大成だと聞いていたのだが、授業内容には衣装の授業もあったはずだった。けれど幕が開いてみれば、舞台上の子どもたちは皆、それぞれ私服でそこに立っていた。衣装は?衣装は用意しなかったのだろうか?《あるもんで》というテーマなのだからわざわざ作るまではしないでも、それぞれ各自が服の色や形をなにかしら揃えたりはできたはずではないか。
「(結局は発表会の延長なのか…。)」
 けれど私はこの後、自分のこの安直で浅はかな考えをすぐに反省することになる。

 幕が上がり、始まりは手を叩くリズム遊びだった。一人ずつ舞台の上に子供が増えていき、客席をみてドキドキしていたり、お互い顔を見合わせて照れている様子はとても可愛らしかった。(同時に、これこそ発表会のそれでちょっと残念な気持ちにはなっていたけれど。)
 そして転換。一人ずつ、子どもたちそれぞれが好きなものを紹介するシーンになる。台詞はなし、録音されたインタビュー音声を流し、舞台の上で子どもたちはそれぞれが自分の好きなものを好きなように披露していた。
  
 これには衝撃だった。
 さっきのオープニングで集団で立っていたときと、子供たちの顔はまるで違った。子どもたちは皆、『それ』が好きで『それ』を知ってもらいたくてそこにいる。それは嘘じゃない演技だった。観客の私達は間違いなく子どもたちひとりずつのドラマを想像したし、子どもたちはひとり残らずこの作品の『自分』という登場人物だった。役者に求められる『キャラクターとして舞台の上で生きる』を間違いなく彼らは体験していたと思う。子どもらにその自覚があったのかは分からないが、『台詞を言えば演劇になる』わけではないことを知ってもらえているなら嬉しい。

 また素晴らかったのは、役者それぞれが、オープニング時の『一方的に見られる』という認識から『見せる。見てもらう』という意識に変わっていたことだ。舞台の上で彼らは観客を信じていたし、どう見せたら面白いか、伝わるか、楽しませるか、ちゃんと考えてパフォーマンスしてた。
 本物のハムスターをもってきたり、目の前でドラムを叩いたり、でかいまんじゅうを嬉しそうに持ってみせたり…。中には、無音の中、舞台を降りて客席ひとつひとつに自分の絵を見せて回った子もいた。とんでもないエンターテイメントだった。 

 ラストはダンスパフォーマンス、そして、客席との一体感を作り上げて幕を閉じる。お客さんも、役者たちも、皆幸せそうに笑っていた。

 暗記した台詞を読み上げたら演技か、それが間違っているとはいはないが、それが全てではないだろう。舞台セットや衣装が整っていなければ演劇と言えないのか、どんな場所でも体一つでできる舞台があることを知ってたはずじゃないか私は。
 《あるもんで》できるのだ演劇は。

 衣装についてだけれど、みなそれぞれ必要な衣装を着ていた。子どもたちが『自分』という役を演じるうえで、間違いなく一番ベストな衣装だった。色や形の統一などできるわけがない。同じものなどないのだから。
 それに、もし『衣装も揃える』というアイデアがあれば、無理して頑張ろうとしてくれる家庭が出てくるだろう。それは駄目だ。それでは《あるもんで》ではなくなってしまう。
 私は猛省した。

 非認可スクールはまだまだ認知されてない。私も『静岡 演劇』でTwitter検索しなければ、知ることは出来なかった。けれど、本当に来れて良かった。子どもたちは皆、のびのびと楽しそうな様子だったし、なによりそこに携われる大人たちの心も、同時に育まれているように感じた。

 学校や学びの場は、もっと柔軟でもっと自由であっていいはずだ。それは、演劇もまた然り。

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?