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twitter アカウント『情熱大陸』と「ほなね君」の始まり

O君の退職

3月いっぱいで、twitter アカウント「ほなね爺」の生みの親みたいな奴が会社を辞めます。

O君という人で、メディア局インターネット・モバイル部時代の僕の部下でした。当時は『情熱大陸』の Web担当をしていました。

O君は単に『情熱大陸』のホームページを作って毎週更新していただけではなく、いち早くそれをブログ形式のものに改めたり、番組本編とは別のコンテンツを展開したり、ポッドキャストをやってみたりと、とても進取の気質に溢れた男でした。

そんな O君がある日僕に「やまえーさん、twitter って知ってます?」と訊いてきたのです。あれは2009年の、多分5月か6月だったと思います。

僕は 2007年に一旦登録して(すぐにやめて)いたので、「知ってる知ってる」と答えると、「あれ、やりませんか?」と彼。僕が「やろうやろう」と軽く乗って、2人で会社には何も断らずに twitter を始めることにしたわけです。

その頃、某キー局さんは

ちなみに、ほぼ同じ頃に TBS が Boobo をキャラにして @tbs_channel というアカウント名で twitter を始めています。中の人とは後に知り合いになったのですが、Yさんという、非常に面白い人でした。

Yさんは会社に入ってからアメリカに留学して、そこでソーシャル・ネットワークの興隆を身を以て体験し、その思い冷めやらぬうちに twitter をやろうと決断したのでした。

ただ、これも後から聞いた話ですが、さすがに一部上場企業ともなると大変で、彼は僕らみたいに会社に無断でおっぱじめたりはせずに、まずは法務部に「twitter をやっても良いですか」と了解を取りに行ったのだそうです。

すると、法務部の人は当然 twitter なんてまだ聞いたこともないわけで、「それは何ですか?」ということになり、「それはかくかくしかじかのもので、これがその資料です」と説明すると、「では、これを読んで1週間後に回答します」となったのだそうです。

で、1週間後に行くと、「twitter の使用を許可します。ただし、一般人をフォローしてはいけません」という予想外の通告を聞いて、Yさんはびっくり仰天します。

一般人をフォローしてはいけないというその根拠が、聞いてみたらめちゃくちゃ面白かったのですが、まあ、あまりよその局の内情を暴露してもいけませんので、それはここには書かずにおきます(笑)

しかし、一般人をフォローせずに twitter をやれと言われると、それは利き腕を使わずにボクシングしろと言われているようなもので、明らかに twitter の特性を無視した悪手です。隔靴掻痒と言うか、それではフォロワーが増えるはずがありません。

もちろん中には、当時誰ひとりフォローせずに異常なほど黙々とつぶやき続けてフォロワーを増やしていた俳優の田辺誠一さんみたいな人もいましたが、あれは稀有な例外です。

Yさんはそれでも随分苦労しながら、ちょっとマヌケな Boobo を半分は演じ、半分は素のままで人気を博し、次第にフォロワーを増やしては行きました。

でも、フォロワー数では『情熱大陸』にはるかに及びません。ある日彼はとうとう我慢ができなくなって、「キー局の公式アカウントが大阪局の1番組のアカウントにフォロワー数で大敗してて良いのか!」と訴えて、漸く一般人フォローOK の許可を得ました。

その日に確か Yさんはいっぺんに 3000人フォローしたと記憶しています(笑)

傷ついても良い捨てキャラ

で、ちゃんとした企業ではそんな風にちゃんとした段取りが踏まれていた中、僕と O君は勝手に twitter を始めることにしたのでした。

ただ、始めるにあたって O君には不安がありました。今までやったこともないメディア、しかも、一般視聴者と直接やり取りをするメディアに手を出して、番組を傷つけるようなことになったらどうしよう?という心配でした。

当時「炎上」という表現はまだインターネット用語としては存在していませんでしたが、まさに今で言う「炎上」の心配をしたのでした。何と言っても『情熱大陸』は全国ネットの大ブランドであり、twitter なんぞで揉めてそのブランドに傷をつけるわけには行かない、というのが彼の懸念でした。

O君は「なんか、実験的なことやって、万一失敗して傷ついてもええようなキャラクターないですかね?」と言いました。それで僕が「あるよ」と言って引っ張り出してきたのが「ほなね君」でした。

もの知りほなね君再登場

「ほなね君」は MBS発行のメールマガジンでレギュラーコーナーを書いていた執筆者で、その正体は僕でした。

2002年、僕が営業局にいたときに、詳しくは書きませんが人事異動のねじれみたいなことから、まるで干されたみたいに窓際的な立場になり、やることがなくて本当に苦しんでいた時期がありました。

ちょうどそのときに会社にマーケティング部という部が新設され、その部が何かやらねばということで始めたのが MBSメールマガジン『おじゃマガ』でした。その編集長が僕の苦境を見て、「何か書きませんか」と言ってくれたのが最初でした。

僕は「もの知りほなね君」というキャラが、毎回大阪弁で業界のうんちくや裏話を 400~500字で語り、最後は必ず「ほなね」(標準語で言う「じゃあね」)で締めるという企画を出して採用され、そこから約6年間、300回以上の連載を書いて書いて書きまくりました。

途中で「おじゃマガ」が廃刊になってしまったあとは、たまたまそのコーナーのファンだったという携帯サイトの編集長に請われて、今度は発表の場を当時隆盛を極めた携帯サイトに移しました。

で、それも終わって完全に発表の場がなくなっていたときに、O君から「失敗しても惜しくないキャラ」と言われて、「このキャラなら失敗したら捨てれば良いだけ」と引っ張り出してきたのが「ほなね君」でした。

かくして twitter アカウント @jounetsu と @honane は、時を同じくして、2009年7月9日につぶやきを開始したのでした。

僕が twitter を始めるに当たって考えていたことについてはここ↓に書いています(今回のこの記事とかなり重複していますが):

情熱とほなねの役割分担

O君と僕の役割分担は決まっていました。2人でキャッチボールをして拡散しながら、とりあえずほなね君が新しいことに手を出してみる。それで大丈夫そうなら情熱大陸が追随するというやり方でした。

まずは僕が一般人を何人かフォローしてみる。「大丈夫そうですね」と言って O君もやってみる。僕が誰かにリプしてみる。大丈夫そうなので O君もリプに答えてみる。

僕が一般人をいじってみる。意外に盛り上がって面白いので、O君のほうは、さすがに番組を背負っているので、もう少し真面目な感じで一般人をいじってみる。

──そんな毎日でした。僕らは会社の許諾も取らずに勝手にやり始めるという、今のコンプライアンス的な考えからすると少々マズイやり方をしてしまったわけですが、日々そんな風にして、言わば OJT的に少しずつ危機回避のやり方を身につけて行ったわけです。

感じは少しずつ掴めてきました。O君は、「これ、ラジオ番組で投書のハガキを採用して読むのとおんなじような感じですね」と言っていました。炎上しないために何が大事かも分かってきたので、むしろ勝手に始めた僕らがコンプライアンス上の手本となり始めた面もありました。

最初の頃のエピソードについてはここ↓に書いています:

僕は最初から「MBS未公認・非公式」という看板を掲げていました。会社に断らずに勝手に始めているから当然とも言えますが、公認公式であることによって発生する責任を回避しつつ会社の名前を利用するという、後から考えたら巧い(ずるい?)方策だったと思います。

当時僕のフォロワー数のほぼ10倍が情熱大陸のフォロワー数で、途中まではその比率を保ったまま揃ってフォロワー数を増やして行きました。

結局僕のほうは 4000人に達する手前で頭打ちとなったのに対し、情熱大陸のほうはその後もどんどんフォロワー数を伸ばしました。

ご記憶の方もあるかと思うのですが、当時の『情熱大陸』の中の人は、僕と違って真面目で端正な語り口ながら、結構人気があったんですよ。そろそろ『情熱大陸』だからお風呂に入りましょう、とかね(笑)

でも、そういうことを言うと「『情熱大陸』の前の時間帯もウチの番組なんだから、そんなことを言うな」などとバカなことを言う奴が出てきます。まいっか、済んだことだから。

で、そうこうするうちにやがて O君も人事異動になり、中の人は後任に引き継がれたのでした。

ほなね君のその後

ほなね君の最盛期のフォロワー 4000人弱(今はもうちょっと減っています)というのは、一般人としてはそこそこ多いほうですが、会社名を語った(「騙った」じゃないですよw)アカウントとしては圧倒的に少ない数でした。ほなね君はそういう中途半端な存在で、我ながら自分らしいと思いました。

その後、僕も年を取ってきたのでいつまでも「君」を名乗るのは気が引けてきたため、ハンドル名を「ほなね君、いや、そろそろ爺か?」に改め、何年か後にはシンプルに「ほなね爺」に改めました。いまだに僕に「爺」とか「ほな爺」と呼びかけてくれる人がいるのは幸せなことです。

twitter 歴は 10年を超えましたが、風邪引いて寝ているときも海外旅行中もたゆまずつぶやきを続けて、この間まったくつぶやかなかったのは1日だけです。

でも、その1日は何か大変なことがあったかと言えばそうではなく、単に忘れていて気づいたら日付が変わっていたという、これまたまことに自分らしいなと思っています。

O君のその後

O君も僕も、その後人事異動でいろんなセクションに移りましたが、僕らはいろいろと接点があり、例えば facebook の社内グループを作るときには O君が主導し、僕は彼とともに管理者に就任しました。

そして、僕が経営戦略室、彼が報道局に在籍しているときに、再びハッカソンで一緒に仕事をすることになりました。

3回実施したこのハッカソンの成果についてはここ↓に書いています:

そして彼は、ある日、定年まで会社にはいないつもりであることを facebook に書き、みんなを驚かせた後、自分が担当していたプロジェクトを完遂し、少しの準備期間を経て、本当に、定年まで何年か残した状態で、会社を去ることにしました。

彼は長年に渡って僕の同志であり、そして、彼がいなかったら twitter アカウントのほなね爺は生まれていなかったのも確かです。

僕はいつも誰と組むかということを大切にしています↓:

長い会社生活の中で、何度も彼と組めたことをとても幸せに思っています。そして、彼がこれまでと同じように進取の気質を発揮して、第2の人生を豊かに彩って行くことを祈っています。

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