気がつけば、自分の人生と、自分が作った歌と、当時流行った歌が重なっていた
自分でもそんなものの存在はころっと忘れていたのですが、実は僕は高校時代、大学時代、そして多分会社に入ってから1年か2年ぐらいはかなり多くの作詞作曲を手掛けていたのです。
アマチュア・バンドを組んでいたわけではなく、自分勝手なギター弾き語りです。ステージに立ったことは一度もなく、ただごく少数のごく親しい友人の前で歌ってみたり、あるいはその友人と自作自演のカセット・テープを互いに交換したりしていました。
やっているうちにどんどん凝ってきて、エレキのリード・ギターやコーラスをピンポン録音(なんて言っても、若い人には何のことかさっぱり解らないでしょうが)で重ね録りしたりしたもんですが、なにしろ歌も楽器も下手くそなので、リズムとハーモニーの両方が崩れちゃうわけです。今あのテープをもう一度聴く勇気はありません(笑)
そのぐらい歌にもギターにも技量が伴わなかったので、すぐに「あ、こりゃ、シンガー=ソングライターにはなれないな」と諦めはしたのですが、でも、ソングライターになる夢は結構引きずっていましたね。
そう言えば、自分の結婚披露宴の二次会で1曲か2曲披露したような記憶があります。でも、あのときはみんな酔っ払っててろくに聴いている人はいなかったんじゃないでしょうか。結婚したのは 30歳を過ぎてからだったので、あれが多分人生最後の自作披露かな。
で、それ以来完全に忘れていたのですが、つい先日、会社の同僚で古くからの友人が、「確か何曲か作ったって言ってたよね」と言ってくれて、それで思い出して、思い出すとなんだか急に懐かしくなって、昔の楽譜を引っ張り出してきて、今毎日のように、「あ、こんな曲あったか」、「ああ、こんなこと思ってたのか」などとひとりごちながら楽譜と歌詞を眺めたり、実際に歌ってみたりしています。
自分でもびっくりするんですけど、結構良い曲が多いんですよ(笑) いや、もちろん日本を代表するヒット・ソングと比べる気はないですけれど、でも一方で、あの頃は自分の作品を客観的に捉えることができなかったような気もします。
楽譜自体は実は中学時代の作品から残っていて、さすがにその頃の作品は詞も曲も拙くて話にならないのですが、高校以降、曲のほうはいろいろ新しいことにトライしていたなと、楽譜を見ながらつくづく思いました。
ただ、詞はね、あの頃に書いた詞は思いっきり暗い、というか鬱屈してるんですよね。まあ、それが僕の青春だったんでしょう。その最たる例として、『ふさいでる僕がわからない』なんて歌作ってますから(笑)
でも、単に僕の青春時代を反映したものばかりじゃなくて、あの頃、世の中にはないテーマの歌を作ろうと躍起になっていたのも確かです。
若い頃に作った歌は(誰でもそうだろうと思うのですが)ラブソングが多いです。好きだ好きだと連呼するような歌、初めてのキスに感極まった歌、終わった恋を嘆き悲しむ歌、自分を振った女性に対する恨み節、等々。
でもね、気がつくとヒット・チャートを賑わしているのはそんな歌ばかりじゃないかと気づくわけですよ。
それでなんか違うシチュエーションを歌いたくて、例えば振られる歌ではなくて自分が振る歌を作ったりしていましたね。
傲慢な歌だなと思われるかもしれませんが、これなんか明らかにオフコースの『秋の気配』(1977年)の影響を受けていたんだと思います。
あの歌を聴いて、世の中に「あなたが僕から離れて行く」ことを嘆いた歌はいっぱいあったけれど、「僕があなたから離れて行く」ことの心情を歌った歌なんてどこにもなかった!と痛く感動したのでした。それで同じような詞を書いてしまったわけです。
あるいは、友だちに頼まれて彼が想っている女の子に恋の橋渡しに行ったら、彼女に「私が好きなのは彼ではなくあなた」と言われた、みたいな歌を書いたりしていました。
「お前はどこまで自惚れているんだ?」と言われそうですが、いや、もちろん自分にそんな体験はなくて、でも、そんなシチュエーションを妄想したわけでもなく、ただただ誰も歌っていないような状況の歌を書きたいと考えていたのです。
その歌詞は「逆に彼女に告白されて有頂天」みたいな脳天気なものではなく、その友だちに対して「どう言ったらいいんだ」と悩みながら、一方で「知らないよ。この先僕の気持ちがどこに傾いても」と歌う、とても悩ましいものでした。
あとは人生の応援歌みたいなやつね。これは水前寺清子ではなく、多分河島英五なんかの影響を受けていたんじゃないでしょうか。あ、人生の応援と言っても他人の人生を励ますのではなく、自分を鼓舞するような歌。
いま挙げた河島英五で言うと『どんまいどんまい』(1978年)みたいな。いや、もっと前の吉田拓郎の『人生を語らず』(1974年)や豊田勇造の『さあもいっぺん』(1976年)辺りに感化されていたのかもしれません。
その後もうちょっと年を取ると、男同士の友情の歌なんかも作っています。これは考えたら社会人になってからかな。
恋の歌に飽きちゃったからという側面もあるんですが、行方不明になっていた高校時代の親友と何十年ぶりかで再会したり、その友だちが急に死んでしまったりしたことを受けて書いた歌です。
作風としてはどの辺の影響を受けていたのかな? いますぐにパッとは思いつきませんが、その時代にきっと僕をそういう世界に誘った歌があったはずです。
キャロル・キングの『君の友だち(You've Got a Friend)』(1971年)とかがその一つなのかもしれません。もっとベタなところで杉田二郎の『男どうし』(1975年)なんかの影響もあったのかもしれません。
曲調の話をすると、僕の曲にはやたらとライン・クリシェが多いです。もう楽譜上の至るところに、これでもかこれでもかとライン・クリシェが出てきます。世の中にライン・クリシェを使った曲は決して少なくないですが、いくらなんでもここまで割合は高くないだろう、という感じ。
これは多分、ザ・タイガースの『僕のマリー』(1967年、すぎやまこういち作曲)やガロの『一枚の楽譜』(1973年、村井邦彦作曲)などの美しいクリシェが強烈に脳にこびりついていたからだと思います。
あと、やたらと出てくる IV → IVm → I というコード進行。これは、僕と同じようにファンだったらピンと来たと思いますが、明らかに吉田拓郎の真似です。
さて、歌詞の話に戻ると、ともかく切ない歌が好きでした。人生は切ないと思ってましたからね。だから、自分でも切ない歌をいっぱい書きました。メロディも含めて切ない歌を。
当時はそれらは全部自分の中から出てきた感懐だと思っていたのですが、実のところ世間で大ヒットした切ない歌の影響を少なからず受けていたのだろうと思います。
── ブレッド&バターの『マリエ』(1970年)、堺正章の『さらば恋人』(1971年)、イルカの『なごり雪』(1974年)、郷ひろみの『よろしく哀愁』(1974年)、風の『22才の別れ』(1975年)、甲斐バンドの『かりそめのスウィング』(1975年)、太田裕美の『しあわせ未満』(1977年)、あがた森魚の『君のことすきなんだ』(1977年)、サザンオールスターズの『いとしのエリー』(1979年)、佐野元春の『SOMEDAY』(1981年)…。枚挙に暇がありません。
自分の書いた楽譜を見ると、右上の角に制作年月と通し番号が書いてあって(書いていないのもありますが)、右下には時々 Dedicated to 誰々などと書いてあるのがあります。
そこに書いてある名前を列挙すると、当時僕が誰に心酔していたかがよく分かります。
そこには少年時代に強く憧れた吉田拓郎がいて、同じように尊敬する鈴木慶一の名前があり、頑張った転調をした曲には同じムーンライダーズのかしぶち哲郎の名前が記されていたり、あとはあがた森魚とか、森田童子、伊勢正三、小坂忠、マザーグース、上田正樹、大貫妙子、甲斐よしひろ、サザンオールスターズ…。
海外ではレオン・ラッセルやザ・バンドなどの名もありました。
でも、これらは最初から彼らに捧げるつもりで作ったと言うよりは、曲ができあがってから「なんか、サザンにこんな曲があったような気がする」とか「これはちょっと甲斐バンドの『ビューティフル・エネルギー』(1980年、この曲は甲斐よしひろではなくて松藤英夫ですが)に似てるな」などと気がついて、後付けで書いていただけのような気もします(笑)
盗作とかじゃなくて、好きだとどうしても似通ってしまうことはままあることで、あのかまやつひろしでさえ、自作の曲について井上順に「この曲はあの曲に似てませんか」と指摘されて、「うん、良い曲はねえ、似ちゃうんだよ」と答えた(”SONGS & FRIENDS ムッシュかまやつトリビュート for 七回忌 produced by 武部聡志”で井上順が言っていました)と言いますから、それで良いんじゃないでしょうか。
問題は歌詞なんです。上にも書いたように、多くの歌詞がかなり暗いんです。
特に大学の最後の頃、就職直前の辺りが最悪で、とにかく社会人になることに対して相当な抵抗感と嫌悪感があったようで、そこで書かれた歌詞はほとんど呪詛と言っても良いようなものでした。
会社員になってしまうことによってまだ大学生の彼女との間にギャップが生まれてしまうとか、自分を偽って仕事探しに躍起になるとか、社会人になって牙を失って誰にも噛みつけなくなるとか、もうほんとに暗いんです。呪ってるんです。前述の『ふさいでる僕がわからない』もそんなことを歌った歌です。
そこにはしかし、多分バンバンの『いちご白書をもう一度』(1975年)なんかの影響もかなりあったんだろうと、今となっては思います。ガロの『学生街の喫茶店』(1972年)みたいな悲しい振り返り方はしたくないという思いがあったのかもしれません。
そして、その一方で、働くことに対するそんな拒絶感こそが僕の「労働観」だったんだろうなとも思います。
以前、「カール・マルクスが『労働は本来楽しいものだ』という捉え方をしていたことだけには同意できない」みたいなことを書きました
が、まさにそこに通じているような気がします。
僕は中学生ぐらいの頃に、大人になったら何になりたいかと問われて、「ギリシャ・ローマ時代の貴族になりたい」と思っていました(口に出してそう答えたかどうかは憶えていませんが)。
いや、マジで、奴隷に働かせて自分は働かずに、哲学や芸術の探求に専念することができたら…と真剣に思っていたのでした(笑)
でも現代の世の中でそんなことは望むべくもありません。その鬱屈が僕の自作の歌に表れていたのではないでしょうか。
そして、結局何十年働いても、労働はやっぱり楽しいものではありませんでした。
もちろん仕事ってやつは真面目に続けてさえいれば、何かが巧く行って達成できた折には飛び上がるくらい嬉しかったり、楽しかったりする瞬間が(たとえその仕事をやるのが嫌で嫌で仕方がなかった場合でも)否応なくあるものです。
でも、それは瞬間であって、僕の場合は(やりたくない仕事を長らくやらされたこともあって)却々それが線になり、面になってはくれませんでした。そんな果てに僕は定年を迎え、長い会社員生活を終えることになりました。
そして今、会社から放り出されてようやく、自分では働かずに哲学や芸術にいそしみ始めたような気もしている今日このごろです。少しまた歌を書くかもしれません。今度はもうちょっと明るい歌をね(笑)
ちなみに僕が自分の結婚披露宴で、お色直しの後の新郎新婦再入場の BGM に選んだのは KAN の『愛は勝つ』(1990年)でした。
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