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自然と対峙し、自然を抑え込むだけが成長ではないはず。

 1月6日の朝日新聞連載「解なき今を照らすために」第12回「人新世を人類が生きる道 斎藤幸平さん「脱成長」、知の巨人の答えは」、同日付け「近視眼の解決よりレジリエンス 斎藤幸平さん、気候危機対談を終えて」の話は、「地球沸騰化の時代が到来した」と国連のグテーレス事務総長が指摘や、能登半島地震を受けた現在において、「科学技術によって、人間が自然を支配する『進歩の時代』は終わったのだ」というリフキン氏の言葉や、「人間が自然環境を破壊することはあっても、自然をコントロールできるという思い込みはフィクションにすぎない。実際、地震や津波の前で私たちは結局、無力な存在なのである」という斎藤幸平氏の言葉に、改めて納得する現状であると思わざるを得ません。

 現状を素直に受け止めれば、「経済や社会についての考え方を根本的に見直さない限り、温暖化を食い止められ」ないという結論に達するのは当然だと思うのですが、しかし現実は国連や各国政府は、既存の枠組みにしがみついたままなのは何故なのでしょう。
 リフキン氏の著書「レジリエンスの時代」で指摘している、「産業革命を起点とする、効率と生産性の追求は限界を迎えたのだ」と思わないのは、人類の持つ技術革新の力を信じているのだとすれば、それこそフィクションだと思います。

 「脱成長」という言葉に不安を感じる人もいるだろうと思いますが、成長が「人間が自然を支配する」ことのみの方向だとするこれまでの考え方が限界ならば、それを「自然と共生する」方向へ変えることも、また成長であろうと思います。
 同じように「脱資本主義」も、資本の使い道を「効率と生産性の追求」ではなく、「自然に適応し、共存する」方向に変えていくという発想が必要なのでしょう。

 しかし、現実にはまだフィクションを信じている人たちが多いのが現状でしょう。残念ながら、もう少し自然と対峙して、人類が負ける場面を見せつけられないと、現実を受け止めることができない人が多いと思いますが、それもやむを得ないのでしょう。
 ただ、完全にアウトになる前にフィクションから覚めることを期待すると同時に、今回の記事のように警鐘を鳴らし続けることが大切なのです。

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