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伝わる/伝わらないとか受け取り方/受け取られ方とかの話

今年の10月にとある演劇コンペティション(つまり早川倉庫杯くまもと若手演劇バトル DENGEKIのことなんだけど)で25分程の短編を上演した際に、お客さんのアンケートに「実験が長過ぎるように感じた」という感想があった。

先日、同じくその上演を観ていただいた方にも、その「実験」の部分に関して、こうしたらいいんじゃない、ここがこうだった(のでだめだった)、というダメ出しをもらった。

僕は両方にその場で反論することはしなかったんだけど、あえてそれをここで書くと、あれは「実験をしている人(表現者)」の芝居であって、その「実験」は薄っぺらいもので、作り手の僕としては「実験」ではなかった。

という言い訳。

そういった感想ばかりでなく、面白かった、とか、表現そのものというテーマに取り組んでいる、かっこいい、といったポジティブな言葉ももちろんいただいた。

コンペティションでの成績は予選最下位”敗退”だった。

以前、朝井リョウの「何者」を出版から半年ほど経って読んだ時に、読み始めて、つまらない、と感じて、普段の倍くらいのスピードで無理矢理読み終えた。
ただ、何でつまらなかったと感じたのか考えたら、面白くなってきた。何でつまらなかったのかというと、情景描写や比喩表現の表現が稚拙で、気持ち悪かったからなんだけど、つまりあれが主人公の一人称を通して作者が語っていた日常だったのだと気付いたのだ。

いや、この「気付いた」というのは正確な表現ではない。
そう僕が「感じた」だけだ。
作者がそこまで計算していたとしたらまんまとその「実験」は成功しているわけで、しかし、普通に「面白い」という読者も多く、もしそうだとしたら多くの「実験」は失敗していると言える。
しかし作品としてはどうか。
結果的に面白いと感じた読者が多いのなら、良作だったのではないか。

ちなみに、映画版「何者」はめちゃくちゃ面白くて映画館で本当に拍手をしそうになったほどだったんだけど、長くなるのでここでは割愛する。監督が演劇畑の人だったというのも大きかったと思う。

で、何が言いたいかってことなんだけど、僕がその演劇コンペティションで上演した作品は結局良作ではなかった、ということだ。
(面白いと思ってくれた人、僕の意思を汲んで演技をしてくれた役者、何より僕自身にとってはもちろん、面白い作品だったことは書いておく。ここでの良作、というのはあくまで客観的(というものがもしあるのなら)なものだ)

難しい作品や多くを語らない作品、抽象的な作品でありながら良い作品であるには、やはりそれなりの力がいる。そしてそれは単純明快でエンターテインメント性に特化した作品にも言えることで、つまり今の僕は力不足だということだ。

今、ruleというシリーズをやっている。
これは、既存のレールや枠(何と喩えてもかまわない)の中で作品を作り続ける限り、その力が相対的に無い僕の逃げの手でもあるかもしれない。
でも僕は実のところそうは思ってなくて、もっと大きなレールや枠(芸術?アート?人の営み?)の中で僕がやっと手に入れた、まだあやふやではあるけれども、可能性を秘めた新しい力だと思わずにはいられない。

ここから仏教の宗派とか、あとこの前観たオン・ケンセン演出の「三代目りちゃあど」にも話を繋げることができるけど、今日はこのへんで。

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