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コロナ禍で売り渡したもの そして得たもの

GWが始まったものの緊急事態宣言、蔓延防止宣言等が各都道府県に出ており旅行にも行けない。彼女とも別れたこともありスッキリしたかったのでぷらぷらと旅行を計画していたのだが、計画は頓挫してしまった。地元の友人や結婚した妹の旦那(学生時代の同級生の弟らしい)とも会いたかったのだが、それすら出来なくなった。

もはや僕がGWでやれるのはFANZA鑑賞ぐらいしかなくなったのだが、それにしてもせっかくのGWをステイホームで過ごせというのは、果たして人間にとって良いことなのだろうか?と思わざる得ない。

さて、先週3度目の緊急事態宣言が出てから今までにはない動きが出始めている。自粛に従わない店舗や個々人が無視できない数出始めている。

ようやく反自粛の流れが大きく動き始めており感慨深い。

私も昨日、自粛に行動で反対している「新時代」というお店のテイクアウトを注文して売上という形で小さな支援を行った。

大した補償もなく自粛するなど商売を潰せと言っているようなものだし、前回前々回の自粛時に病床を増やさなかっかような政権、地方自治体の言うことを聞く必要はない。

前回書いたような思いもあって私は反自粛という立場で訴えている。

しかし私はふと思った。

「自粛という規範を破ることを奨励することは果たして良いことなのか?」と。

社会保守主義者という自己認識を持ち、道徳や規範を守り、各種中間共同体を維持することが大切であるという立場を取っている。そこで私が反自粛運動を煽ることは規範意識を壊し、人々を個人中心主義に堕落させ、共同体を壊してしまうことになってしまうではないかということに繋がる。そのことは社会を保守する立場と矛盾するのではないかということだ。

「規範」とは、「社会利益」のための共同行動である。ここで言う「社会利益」が「自粛」か「反自粛」なのかということで判断が分かれてしまったのである。規範の根本、もう少し簡単な言葉で表すと「常識(コモンセンス)」が、分裂してしまった状態なのだ。

私の中ではコロナ程度で「経済と社交と自由」を規制することの方がよっぽど害が大きいと思うため、「常識(コモンセンス)」の正当性があると考えている。

経済は共同体の成員の活力の源であり、そこが壊されれば共同体の維持管理に関われる余力がなくなる。社交が奪われれば、共同体の成員同士の連帯感が奪われ、共同体の求心力が失われる。自由がなくなれば、共同体の悪い側面(義務、相互監視)ばかりが浮かび上がり、共同体への愛着がなくなる。だからこそ自粛に反対しているのだが、そんなの自粛の方に「常識(コモンセンス)」があるとの立場の他者から「規範を破って個人の自由を奨励した!お前には規範を守れという資格がない」と言われれば、有効な反撃を持てないだろう。

もはや共通の土壌ではなくなったのだ。

著名な人でも反自粛的な立場を取るのが、藤井聡(保守:学者)、小林よしのり(保守:漫画家)、東浩紀(リベラル:哲学者)、三浦瑠麗(リベラル:学者)、堀江貴文(ネオリベ:経営者)などであり、本来一緒の主張になり得るわけがない人々が同様の主張を行っている。もはや旧来の枠組ではくくれない社会がコロナが持ち込んだのだ。

前回の投稿で「自粛派のリベラル」が「自由」を売り渡したと言ったが、私達「反自粛派の保守」も「規範」を売り渡したと言えるのだろう。

と同時に、リベラルと保守、ネオリベという旧来のあり方ではない新しい連帯をもたらした可能性もあるかもしれない。

このコロナ禍という特殊状態下で同じような主張をしたという事実は、意識無意識、当人との周辺問わずコロナ後の社会で影響を与えていくだろう。

そこにコロナで分裂が顕著になってしまった社会の治癒の一つが生まれてくるのではないかと淡い期待を持っている。

コロナ後の世界はどうなるのであろうか。


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