要請される主体性:逃げ場としての書店

「主体的に動けているよね。」
「自ら取り組んでいてすごい。」
「僕らにはそんなにできない。」

そう言われることがある。
ただその一方で、

「無理していない感じがするよね。」
「なんだか自然体だよね。」
「肩肘張っていないイメージがある。」

そう言われることもある。
前者のコメントをもらったとき私は返答に困り、
「いやいや、、、別に、、」とぼそぼそ言うことが多い。
反対に後者のコメントをもらったときは特に返答に困らない。自分が持っている感覚としては後者のほうが強いからだ。

まちの小さな書店の開業とそこに来る人々

私は昨年12月に地元である新潟県上越市に小さな書店を開業した。4月から空き家のリサーチを開始し、7月末に物件が確定。4ヶ月間の準備を経て12月にオープンを迎えたという運びだ。東京との2拠点生活の中で準備を続けていたので、4月のリサーチ開始から合わせて10回の往復、計23日間の滞在で開店まで辿り着いた。
「たてよこ書店」と名づけたわずか10畳ほどの書店は、まさに私が地元で暮らしていたエリアにあり、卒業した小学校がほぼ目の前にある。

東京との2拠点生活の中で運営しているので、開店するのは毎月上旬の7日間程度に限られる。ただそんな短い営業日の中でも近所の住民や新聞を見て来たというお客さん、学校帰りの小学生などが遊びに来る。
昼間は近所の住民や仕事が休みの大人たちが中心で、本を眺めたり、私とおしゃべりをしたりして帰っていく。それに対して夕方は、学校帰りの小学生が宿題をしにやってきたり、仕事終わりの大人たちが少し急ぎ気味で来店したりする。

様々なお客さんを迎える中で、やはり小学生との関わりは印象に残りやすい。その感覚の裏には自分の中にある数年前の懐かしい記憶や無邪気でパワフルなコミュニケーションなど色々あるだろう。
小学生たちは授業を終えて一旦家に帰った後、宿題とお菓子を持って書店にやってくる。自分で机の上に並べてある本をそっと横に動かして勉強スペースを作り、私とお菓子を交換してから宿題を始めるのがいつものことだ。
宿題を終えると「何か手伝うことはある?」と聞いてくれるので、これまでに本の整頓や看板の塗装を手伝ってもらったりした。
「働けるようになったら、この書店でアルバイトする!」
最近はずっとそう口にしている。

要請される主体性

私はそんな小学生たちより10年ほど早く生まれ、いわゆる大人と呼ばれるような年代になった。受験、サークルや課外活動、インターン、就活など、自分で自分の進む道を切り拓いていくような段階にいる。誰もが一度は立ち止まって将来のことを考える、そんなタイミングだ。それが高校生のときにくる人もいれば、高校を卒業してから、大学生になってからしっかりと考え始める人もいて、一概にこのタイミングでしっかり考えなさい、と言うことはできない。ただ、そういった段階になると、途端に主体的であることを要請されるようになる。

自分から行動していろいろ学びに行きなさい。いろんな人に会いに行きなさい。自分のコンフォートゾーンから出なさい。自分のことに対してもっと自覚的になりなさい。
直接そう言われることは少なくても、同世代の間ではなんとなくそうしなきゃいけないような雰囲気が漂う。そして社会の側からもなんとなくそうしておいたほうが良いという空気感を感じるようになる。
そういう何となくの雰囲気や空気感を受け取った側は、いつしか「主体性というベール」を纏うようになることが多い。そのベールを纏った人たちは、そそくさと将来について考え始め、取ってつけたような言葉を並べて自分の進路を決めていく。

決してそのベールを纏うことを否定したいわけではない。とりあえず何か始めてみないと分からないことは多々あるし、そうして要請された主体性の中から何かが生まれてくる可能性も十分に考えられるからだ。
ただ、ベールを纏った状態から生まれた何かは果たして本物なのだろうか。外側から見たら綺麗に見えるかもしれないが、内側から見たらどうだろうか。より善いものと言えるだろうか。
たてよこ書店に来て、見ず知らずの大人たちとコミュニケーションを取る子供たち、本棚の整理や看板作りを手伝ってくれる子供たちの行動は、外部から要請されたものなのだろうか。
きっとそうではないように思う。手前味噌かもしれないけれど、おそらく彼ら彼女らは何となくその場所が好きで、そこで話すことが好きで、そこにいることが楽しくて、たてよこ書店に来るのだろう。そして年を重ねて思春期に入ったり、別の楽しみや遊びを覚えたら書店とは別の場所に行くようになるのだろう。
子供たちは、”まさに今!そのときの気持ちに従っている”
そんな気がしている。

純粋な気持ちが出発点

「みんながみんなわがままになれ」とか「自由に」とか「やりたいことを」とかそういう風には思わない。様々な経験を経て、冷静に判断したり、長期的な視点で物事を捉えて計画的に進めていったりするのは大人ならではの力だと思うから。ただもう少し自分の内側からくる瞬間的な、純粋な気持ちを大切にしても良いのではないかとも思う。確かに将来を考える中で主体性を要請されるタイミングは必ずやってくるし、ベールを纏ってうまくいくこともあるかもしれない。けれどそうして出来上がったモノやコトが長く続くとは私には到底思えない。純粋な気持ちを出発点に置くことで、自然体で無理をせず、かっちりと肩肘張らずに物事に取り組めるのではないかと思う。
主体性とは「持つ」とか「身につける」とかそういうものではないのかもしれない。あくまで純粋な気持ちに従っていった結果、その先の行動が結果的に「主体的だった」と言えるだけであって、初めからそれを狙って行動するものではないのだと思う。

書店という場

そうは言っても、日常の生活や仕事はそんな単純なものではないし、全員が自分の気持ちに正直に行動できるわけではない。主体性を要請される中で、そのベールを纏い続けて疲れてしまった人や、そもそもベールを纏うことができずに進路を決めきれない、迷い続ける人もいるはずだ。
でもそういった人を受け止めることができる一つの場所がまちの小さな書店だと思っているし、たてよこ書店もそういう場に育てていきたいと強く願う。
そういった意味では、逃げ場という捉え方ができるのかもしれない。見たことない本がたくさん並んでいて、読まなくても棚を眺めているだけで楽しくて、どこか違う世界に連れていってくれそうな感じがして、でも少しだけ寄り添ってくれる気もして。
主体性を要請する(される)のであれば、ひと休みする逃げ場の存在が大切ではないだろうか。いわゆる主体的と言われる人にたくさん居場所や進む道があるのならば、”そうじゃない人”を受け止める場所も必要なはずだ。

例の小学生たちがこれからどんな選択をして、どんな道を進んでいくのかはわからない。その中でたてよこ書店をどういう使っていくのかということも。要請される主体性をうまく乗りこなしていくかもしれないし、それに苦しくなるかもしれない。
ただ彼ら彼女らが(もちろんそれ以外の全てのお客さんも)どんな状態にあろうと、静かに受け止められる場を作っていきたいと思う。

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