昔の話をしよう。
これは私の、厄草屋の、過去のような、物語のような記憶。
現実だと思えば現実で良く、夢か創作だと思えばそれでいい。
そういう話だ。
とりとめのない、まとまりのない、今となっては断片的な記憶。
ただただ、そういう話だ。
行き場の無さを抱えていた。
それは物心ついた時からそうだった。
拠り所があると自覚している人の方が少ないのかもしれない。無いからこそ、無いと自覚するようなものでもあるし。
少なくとも私は「無い」と自覚していた側であり、それは成長しようが変わらなかった。
与えようとしてくれた人はいたかもしれないが、それが私の居場所や拠り所にならなかった。
そうしてそのまま、成長していった。
はずれたモノに対して、周囲というのは距離を置いたり、そういう生き物として見る。
少なくとも、私の周りはそうだった。
多様性なんて言葉が聞こえるようになっても、それが嘘っぱちでぺらっぺらの綺麗事に聞こえるくらいにはそうだった。
出入りしていた店があった。
街の大通りから少し入った、お世辞にも綺麗とはいえない店。
服を扱っているけれど、煙草のにおいが染みついて、そんなに明るくもない店というのは、今思えばだいぶ危ない場所のようにも思える。
けれど、時間があればそこに訪れるようになっていた。
店に行ったからといって、何をするわけでもない。
気に入った服があれば買うこともあったし、店主やよく顔を合わせる人と会話をすることもあったが、何をしていたのかと聞かれれば「特に何もしていない」になるだろう。
それは悪いことをしていたから今でも話せない、という意味では無く。
本当に「大したことは何一つしていなかった」からだ。
正直、今となっては店主がどんな人だったか、
よく会話をしていた人はどんな服装で、どんな顔をしていて、なんと呼び合っていたのかとか、
そんな覚えていそうなことさえ覚えていない。
何の話をしていたか、とか。
笑い合った理由も、肩を貸した理由も、
そうした感情の交流も。
何もかも。
その程度、と言ってしまえばその程度の、
ただのモラトリアムの一幕があの店での時間だったのだろう。
ただあの場所が、はずれたモノを受け入れてくれていたのは確かだったのだ。
どうしようもない、そういう扱いをされてきたものにとっては、息が出来る場所。
そういう場所だったのだ。
他の人にとってはどうか知らないが、私にとっては。
あの時の私にとっては、大切で、必要としていた場所。
気が付いたらこんな名で、海のものとも山のものともつかぬことをしている。
別に、あの店と自分を重ねているわけではないし、そうなろうとするには私には足りていないものが多い。
ただ、私は今でもきっとそうしたものにとらわれているから、こういう姿と存在の仕方なのだろうと思う。
自分が注目されるのではなく。
自分はただそこにあるもので。
店は開けてるから好きにしていて構わないという、そういう場を作りたかっただけ。
少しばかり私が異質なものになってしまったけれど、まあ別にそれくらいは誤差だろう。
自らが派手にならないのも、
物事に熱を上げられないのも、
私がそうなる理由がないからで。
派手になるものがあれば、それは私ではなく。
作ったものや、そこで出せる景色に少しばかり華があればそれでいい。
そもそも、どこもかしこも輝いていたら疲れるだろう。
裏路地の暗さを好むような身には、世界はまぶしすぎる。
そうしてたどり着いた先が、これだった。
ふと、昔のようにあの店に足を運んでも。
私がモラトリアムの夢から覚めた時に、店は消えていた。
もしかしたら何処かにあるのかもしれないが、もう同じ場所にはない。
それも含めて、そういうものなのだろう。
私にとって、泡沫のような、うたた寝のような象徴。
でも、それでいいのだ。
そういうものなのだ。
受け継いでしまったからこそ、
もう同じ場所には戻れない。
それだけの話だ。
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