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#山に十日 海に十日 野に十日 9月

台風と「所有」

子どものころ、台風は楽しみのひとつだった。
昼間にやって来ると、学校が休みになるので嬉しかったし、夜は夜でワクワクした。昔はちょっとしたことですぐ停電になり、闇に包囲されると、ゴーゴーと鳴る風の音が凄みを増した。テレビで分断されていた家族が一つ部屋に集まり、ローソクの灯りを見つめて一夜を過ごす。隙間風でローソクがゆらぐと、黒い影が怪しくうごめき、「ヒュー!」という音とともに突然炎がかき消えたりすると、ゾクゾク感は頂点に達した。

おまけに我が家は、築明治10年の古きボロ家。猛烈な風のパンチをくらうと、たまらずに「ミシッ!」と悲鳴をあげる。家の基礎回りはただ塚石の上に乗ってるだけなので、床下はスッカラカンの空間。わが物顔で風が吹き抜け、畳を持ち上げる。川が増水した時などは、玄関の靴や草履がプカプカと水に浮かび、フラダンスを始める。そうなると舞台はもう一気にクライマックスへ……。

台風一過、世間を見て回るのが、またドキドキだった。街路樹が倒れていたり、大量の流木が山から流されてきて海岸に打ち寄せられていたり、時には魚なども打ち上げられていたりして、心が弾んだ。もちろん、屋根瓦が飛ばされていたり、壁が剥がされていたり、物置が吹き飛んでいたりすると、それなりに心が傷んだが……。

子どものころ、どうして台風は楽しいものだったのだろうか? 
台風の恐るべきパワーと、非日常の光景に圧倒されたことも一因だろう。だがそれよりも、子どもだった自分が「何も所有していなかったから」に違いない。
人は、「所有」した途端に、次から次へと心配事が積み重なり、居ても立ってもいられなくなるのである。

例えば家を所有している人は、台風の大きさや進路に怯え、屋根が飛ばされるのではないか、根こそぎ壊されるのではないかと、オロオロソワソワ。壁板を打ち付けたり、屋根周りを補強したり、土嚢を積んだり、落ち着く暇もない。船を所有している人や、畑や果樹園などを所有している人も同様だ。大雨・洪水・暴風・波浪・高潮警報が発令され、今回の台風14号(ナンマドル)のように、気圧が925ヘクトパスカルだとか最大瞬間風速が70メートルだとか、あるいは「過去最強級」とか「これまでに経験したこともない猛烈な台風」だとか言われると、もう心臓がバクバクして、気絶しそうになる。いやはや、所有すればこその悩みは、果てしなく深い。

ぼくらは、いつごろから「所有」という観念を持ち始めたのだろうか。「家」に限って言えば、はるかな昔からあったのかもしれない。だが「土地」に関しては、そんなに古い話ではなく、どうやら明治維新以後のことのようだ。
 
西洋列国に対抗して富国強兵策を推し進めようとする明治政府が、最も重視したのが税制改革=地租改正であった。それまで、土地の生産力を米の生産量(=石高)で計算し、その石高に応じて年貢を課していた(=物納)が、明治政府は全ての土地に賦課して一定の額を「金納」させる新しい税制を導入した。その新税制導入によって、はじめて土地に対する私的所有権が確立されることとなった。
全国統一の課税制度により、政府は安定した収入を確保することができるようになったが、大多数の国民の負担は増大した。そして、村落共同体の入会地も課税対象となったために、大半が税金を支払うことができずに国有地に編入され、地域経済に多大な影響を及ぼすこととなった。

そのことは屋久島とて例外ではなかった。地租改正によって、藩有林や村持ち山のほぼすべてが、国有林に編入されていったのである。

役人来て曰く。「所有を主張すると、税金がかかるぞ。そんな金があるのか。土地が国の物になっても、東京へ持っていくことはできない。大丈夫だ、これまで通り自由に使える」と。

そもそも島人にとって、山や土地を「所有」するという考え方は存在しなかった。土地は所有するものではなく、どう使うかという「使用権」の範疇だったからである。
 「年の初めに、村の共有地に出て、今年自分が耕したいと思っている広さの分だけ鍬を入れる。そうやって先人たちは、その年の使用権を得た」と、この島の歴史は伝えている。

薩摩藩に支配されていたとはいえ、人々は村持ちの山に自由に入り、屋久杉を倒し、薪を取り、家を作る材を得ていたのである。昨日まではそうだったのだ。ところが地租改正が断行され、今日山に入ると、盗人として捕らえられてしまう。驚き憤った島人たちは、国を相手に行政訴訟に踏み切る。だが十六年間闘い抜いたが、大正9(1920)年敗訴した。そうやって、「おらが山」の大半が国有林に編入(=没収)されてしまったのであった。

いやはや、所有という観念は、げに恐ろしいものである。
こんな暗くて心細い夜は、ビッグストーンの「モンゴルの遊牧民」でも聞きながら寝るとしよう。台風対策はバッチリ終えたし、あとは飲んで寝るだけなのだから……。

モンゴルの遊牧民

羊を飼い馬と共に 移動しながら暮らしてきた
モンゴルの遊牧民よ 大地は誰のものでもない

※果てしなき大草原を 風のように渡ってゆけ
 モンゴルの遊牧民よ 紺碧の空の下を
 どこまでも いつまでも

ゲルを建てゲルをたたみ 不必要なものは何も持たず
モンゴルの遊牧民よ 後には何も残さない



馬乳酒を飲み鳥のように舞い 空と大地に抱かれて眠る
モンゴルの遊牧民よ 自由を縛る鎖はない


ビッグストーン「モンゴルの遊牧民」(詞=長井三郎・曲=笠井廣毅)

…………
長井 三郎/ながい さぶろう
1951年、屋久島宮之浦に生まれる。
サッカー大好き人間(今は無き一湊サッカースポーツ少年団コーチ。
伝説のチーム「ルート11」&「ウィルスО158」の元メンバー)。趣味は献血(400CC×77回)。特技は、何もかも中途半端(例えば職業=楽譜出版社・土方・電報配達業請負・資料館勤務・雑誌「生命の島」編集・南日本新聞記者……、と転々。フルマラソンも9回で中断。「屋久島を守る会」の総括も漂流中)。好きな食べ物は湯豆腐。至福の時は、何もしないで友と珈琲を飲んでいるひと時。かろうじて今もやっていることは、町歩き隊「ぶらぶら宮之浦」。「山ん学校21」。フォークバンド「ビッグストーン」。そして細々と民宿「晴耕雨読」経営。著書に『屋久島発、晴耕雨読』。CD「晴耕雨読」&「満開桜」。やたらと晴耕雨読が多いのは、「あるがままに」(Let It Be)が信条かも。座右の銘「犀の角の如く」。