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#山に十日 海に十日 野に十日 7月

マイ・トロッコ

学校が夏休みに入る頃、待ちかねていたかのようにクマゼミが一斉に鳴き出す。パワフルなその大合唱を聞くと、とたんに川が恋しくなる。

ぼくが小学生だった昭和30年代、川へ続く道はトロッコ道だった。炎天下、焼けたレールの上を歩いたり、枕木の上を飛び跳ねたりしながら、川への道を急いだものである。どこからともなく出現するハンミョウにちょっかいを出したり、オニヤンマの低空飛行に見とれたり、クサギの花に群がるアゲハや水たまりに集まるアオスジアゲハに目を奪われたりしながらも、心は、川へ一直線。目指すは、川であった。

中学生になると、鮎突きにはまった。当時友釣りなどする者もなく、大人たちは、鮎にまったく無関心。鮎獲りは、子どもたちの遊びだった。
その頃宮之浦川にはたくさんの鮎(天然鮎)がいて、群れをなして泳いでいた。その群れを追いかけたり待ち伏せたりして、銛で突くのである。鮎の動きは早く、どんなに頑張っても、せいぜい数匹。十匹も突けたらもう御の字で、唇の色が紫色になるまで、夢中になって鮎を追いかけまわしたものである。
やがて上達してくると、銛も自作した。壊れた傘の骨で作るのである。というのは、店で売っている銛は、又の数が多くて、鮎を酷く傷をつけてしまうからである(五本又の銛を使うと、胴体を分断してしまうこともあった)。
作るのは簡単だった。傘の骨の先端に返しを付け、「一本銛」に仕立てるだけ。傘の骨は手軽に入手できるし、また簡単に加工できるので、打って付けの材料だった。だが、いかんせん壊れやすかった。不用意に石に当ててしまうと、一発でひしゃげた。でもそれもまた遊びの内である。壊れたらまた作ればいい。何よりも、鮎を綺麗な状態でゲットしたいのである(遊びを通じて、島の子どもたちは逞しく成長していくのだった)。

高校生になると、なんと「マイ・トロッコ」を手に入れた。横着な悪ガキどもは、川までの距離が遠いものだから、せめて帰り道だけでも楽したいと考えたのだった。
ある日、貯木場の隅に朽ちて放棄されたトロッコを発見。木組みを修理すれば使えそうだ。枠材を補強し、上部に板を並べて打ち付けて修繕。「マイ・トロッコ」を作り上げた(勝手にレンタルしておいて、マイ・トロッコとは笑止千万!)。
ところが、思った以上に「マイ・トロッコ」は重かった。おまけにずっと登り勾配。カンカン照りの炎天下、百mも行かないうちに、汗まみれになった。息も上がる。笑うしかなかった。でもやり始めたことは、途中でやめるわけにはいかない。浅はかさに苦笑しながらも、それでもなんとか目的地にまで、押し上げた。
ひとつ大きく深呼吸して、最後の仕上げに取りかかる。気合を入れて、トロッコを線路から外し、土手に立てかけなければならない。そして、木の枝を集めてカモフラージュ……。何のために? 世の中には悪い輩がたくさんいるからだ。せっかく運んできたトロッコを、誰かに乗って行かれでもしたら、元も子もないではないか……(あー、疑心暗鬼の心は、底無し沼だ……)。

なんとも愚かな話だが、それもこれも、川に至る道なのだ。本当に川は、最高だ! クレガワ(宮之浦川と崩川が合流する淀み)の、深いエメラルドグリーンの淵に飛び込むと、疲れも汗も(汚れた心も?)、一瞬にしてどこかへ消え去ってしまう。泳ぎながら、川の水をゴクゴクと飲んで渇きをいやす(こんな清流が、何処にある?)。
そして、空の歌や海の歌を口ずさみながらキラキラ流れていく川に身をゆだね、我を忘れて鮎を追いかける……まさに至福の時間が過ぎて行く。

身も心もすっきり爽快になって帰路につく。水浸しにしたタオルを、焼けた鉄のレールの上で絞る。レールの熱を冷ましてから耳を当てないと、火傷してしまうからである。レールに耳を押し当てて、音を確認し、マイ・トロッコを線路に乗せる(注意しないと、材を積んだトロッコや、貯木場からトロッコを連結したディーゼル車が上がって来たりするので、まずは音を聞いて安全を確認する必要があるのである)。しっかりと手順を踏んで、出発進行! 
最初に力を込めて押し、動き出したら飛び乗る。マイ・トロッコは、だんだんスピードを増しながら、あっという間にふもとまで駆け下っていく。「エンジンの必要もなく、なんという環境にやさしい乗り物だろうか」、なんてこと当時は思いもしなかったが、考えてみれば実にエコな乗り物である。

トロッコ(森林鉄道)が宮之浦に敷設されたのは、昭和11年。宮之浦港に貯木場(現在の環境文化村センター)が置かれ、トロッコは街中を通り、宮之浦川沿いに、耳崩から高塚山の下まで延伸された。
もちろんその役割は、山から木材を搬出するためである。屋久杉を満載したトロッコが、ノンストップで山から降りて来る姿は圧巻だった。突然何台ものトロッコが、ゴーゴーと目の前を通過していくのである。線路に柵がしてあるわけではないし、踏切があるわけでもない。家々の玄関の前を、平然と走り抜けていくのである。よくぞ、事故が起こらなかったものだと思う。

昭和40年代後半、トロッコからトラックへと輸送形態が変わると、あっけなく森林鉄道は撤去され、町中のトロッコ道も消滅。アスファルトで舗装され、跡形もなくなってしまった。今は川の上流部に、かすかな痕跡を残すばかりである。時代が変わると、いろんなものが変わっていく。それは仕方のないことだが、願わくば、変わってほしくないものがある。その一番のものは、川の輝きだ。
ぼくらが小さい時に泳いだ川が、いつまでも本来の輝きを保ちつづけてほしいと思う。もちろん川は川だけで輝けるのではない。川が川として在り続けるためには、山が山として、そして海が海として輝きつづけていなければならない。その「三位一体」こそが、この島の宝なのだ。

だが残念ながら、昔の少年たちが泳いだ川は、昔のままではない。白い花崗岩の川原に咲き誇っていた赤いサツキの花も大半が盗掘され、あんなにたくさん生息していた鮎も、今や絶滅寸前! 
どうすれば鮎たちに帰って来てもらえるのだろうか。

悲しいかな、昔の少年たちはすっかり老いぼれて、その答えを示せない。ただ、自分たちがどっぷりと身を浸したあの川の美しさを、あの時の川本来の輝きを、未来の子どもたちにも見せてあげたいと、切に願うばかりである。

…………
長井 三郎/ながい さぶろう
1951年、屋久島宮之浦に生まれる。
サッカー大好き人間(今は無き一湊サッカースポーツ少年団コーチ。
伝説のチーム「ルート11」&「ウィルスО158」の元メンバー)。趣味は献血(400CC×77回)。特技は、何もかも中途半端(例えば職業=楽譜出版社・土方・電報配達業請負・資料館勤務・雑誌「生命の島」編集・南日本新聞記者……、と転々。フルマラソンも9回で中断。「屋久島を守る会」の総括も漂流中)。好きな食べ物は湯豆腐。至福の時は、何もしないで友と珈琲を飲んでいるひと時。かろうじて今もやっていることは、町歩き隊「ぶらぶら宮之浦」。「山ん学校21」。フォークバンド「ビッグストーン」。そして細々と民宿「晴耕雨読」経営。著書に『屋久島発、晴耕雨読』。CD「晴耕雨読」&「満開桜」。やたらと晴耕雨読が多いのは、「あるがままに」(Let It Be)が信条かも。座右の銘「犀の角の如く」。