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#山に十日 海に十日 野に十日 11月

縄文杉今昔

縄文杉に関して今、本末転倒の議論が展開されている。それは、
「林床の植物が生い茂り、縄文杉が見えにくくなってきた」から、
「縄文杉周辺の低木を剪定したらどうか」という議論である。

おかしな話である。なぜなら、そもそも「見えにくい」のが、「本来の姿」なのである。縄文杉が生えている森は、本来鬱蒼とした森で、林床にはハイノキやヒメユズリハが繁茂しているのである。見えにくくて当たり前! 
縄文杉がいかに偉大な存在であったとしても、多様な自然の中の一員に過ぎない。豊かな森に抱かれて、周りの樹々と競い合いながら風雪に耐え、気の遠くなるような光陰を積み重ねてきたのである。
なのに、見えにくくなったから剪定するというのは、本末転倒としか思えない話である。

今から56年前の1966(昭和41)年、縄文杉は発見された。発見者は、宮之浦の岩川貞次(1904-1987)さん。「大きな岩のように見えた」ので「大岩杉」と名付けたというが、自分の名前の一文字を入れたいという欲求は抑えきれなかったのだろう……。
 
 その翌年、高校生だったぼくは、友人とその杉を見に行った。だが、よく見えなかった。ハイノキをかき分けて、ようやくたどり着き、幹を撫でながら左回りに一周し、その大きさを感じた。

やがて「縄文杉」と呼ばれるようになったその杉に、何度会いに行っただろうか。行く度に、杉もその周辺も「変容」していた。

まずは、見えにくいということで、林床のハイノキが根こそぎ伐りはらわれた。縄文杉は丸見えになり、まるで「見世物」になったようで、少し切なく感じた。

その後、林床の土砂が流出。降りしきる雨に叩かれて根方が露出。下り斜面に立つ縄文杉の根元を守るために、幾重にも水切り版を設置し、大量の土嚢が積まれた。

さらには縄文杉を守ろうと、「一握の土」運動が提唱された。それは、縄文杉登山のスタート地点である荒川口に置いてある土を、登山者たちに袋に詰めて運んでもらい、根元に撒いて流失した土を補うという試みであった。いやはや……。

時が過ぎ、ある日突然、縄文杉の肌が赤くなり始めた。誰かが、樹皮を剥いで持ち帰ったらしく、以後我も我もと、記念に持ち帰る人が続出。人の手の届く範囲の樹皮が剥ぎ取られ、縄文杉の下半身は無残な状態になった。

背後に回ると分かるが、縄文杉の内部は、かなりの広さの空洞になっている。いつ頃からだったろうか。そこに様々な供物が置かれるようになった。稲穂を飾る者もいれば、首飾りを掛ける者、さらには○○○を置いていく者……。変容は止まらなかった。

やがて、縄文杉は立ち入り禁止となり、剥き出しの林床にはハイノキやヒメユズリハが植栽され、シカに食われないようにと防鹿柵まで張り巡らされた。そして……、「展望デッキ」が設けられたのだった。

そんな経緯をたどり、現在ようやく植生が回復。本来の姿に近い状態に戻ってきたところである。
それなのに、「見えにくくなったから、林床の植物を剪定する」という話が、「屋久島世界遺産地域管理計画」見直しの俎上に載せられているのだから、摩訶不思議な話である。

観光協会の事務局や山岳ガイドの人たちによれば、観光客から「見えにくい」だとか、「パンフレットの写真と違う」というクレームが多数寄せられているのだという。「だから、伐ってほしい」と。

それもまた、本末転倒の話である。なぜなら、「観光客に迎合してはならない」というのが、これまでも、そしてこれからも、「屋久島の目指す観光」の根幹でなければならないと思うからである。
「屋久島本来の自然の輝き」を大切に保全しながら、「細く、長く、持続的に!」が、屋久島の観光の目指すべき方向であろう。

観光客から「見えにくい」と言われたら、そんな時こそガイドの腕の見せ所ではないのか。「そうなんですよ。これが屋久島の本来の森の姿なんですよ」と、滾々と説明して観光客をたしなめることが、ガイドの果たすべき役割ではないのだろうか。

屋久島の目指すべき観光についてもっと言えば、宮沢賢治の童話ではないが、「注文の多い観光地」になるべきだと思う。

例えば、正・五・九月の「山ん神様」の日は、「山に入らない」日とする。島に住む人も、そして観光客も、その日は誰もが山に入ることなく、里で過ごし「山を思う日」とする。

例えば、山岳部における糞尿の問題。その大問題を解決する方法として、屋久島の山岳部に「トイレは設置しない」ことにしたらどうか。もちろんそのためには、携帯トイレの処理方法の確立が大前提だが、将来的には、糞尿は各自持ち帰ってもらう! 
「お腹に入っていたものを、背中に背負って帰ってきて下さい」
ガイドが率先して、そんなキャンペーンを展開すれば、事態は一挙に進展するかもしれない。

例えば、ヤマヒルのこと。登山道のヤマヒルを駆除しようという話があるけど、ヤマヒルがいるということは、それだけ自然が豊かだということ。もし血を吸われたら「献血証明書」を発行するくらいのユーモアがほしい。

それから例えば、西部林道。そこは里における世界遺産の核心地域である。「敢えて不便な仕掛け」(マイカー規制や電気自動車の導入。あるいは自転車や徒歩移動によって堪能してもらうようなプログラムの作成等)を設けることによって、「屋久島の持つ貴重な価値のひとつである『ゆったりとした時間の流れ』を体感できるような仕組み」を構築していくべきではないのか……等々。
 
 話が横道に入り込んでしまったが、縄文杉周辺の低木を伐るという話は、単にそのことだけに留まる話ではなく、屋久島の観光の在り方の「根本」に関わる話なのだと思うのである。

…………
長井 三郎/ながい さぶろう
1951年、屋久島宮之浦に生まれる。
サッカー大好き人間(今は無き一湊サッカースポーツ少年団コーチ。
伝説のチーム「ルート11」&「ウィルスО158」の元メンバー)。趣味は献血(400CC×77回)。特技は、何もかも中途半端(例えば職業=楽譜出版社・土方・電報配達業請負・資料館勤務・雑誌「生命の島」編集・南日本新聞記者……、と転々。フルマラソンも9回で中断。「屋久島を守る会」の総括も漂流中)。好きな食べ物は湯豆腐。至福の時は、何もしないで友と珈琲を飲んでいるひと時。かろうじて今もやっていることは、町歩き隊「ぶらぶら宮之浦」。「山ん学校21」。フォークバンド「ビッグストーン」。そして細々と民宿「晴耕雨読」経営。著書に『屋久島発、晴耕雨読』。CD「晴耕雨読」&「満開桜」。やたらと晴耕雨読が多いのは、「あるがままに」(Let It Be)が信条かも。座右の銘「犀の角の如く」。