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亡き人を想いて歩き続ける(作品紹介)

10月に京都で予定しているパフォーマンス作品『Walking Step』について

(日時は記事ヘッダーを参照、詳細と予約は👆のリンクからお願いします)

パフォーマーのフルカワトシマサ氏が先にされていた本作。氏がこの作品を行うきっかけになったのはお父様を亡くされたことだったと聞いた。

誰かの死をきっかけに、目的地などなくただ会場で足を動かし続けるパフォーマンスを始めた、というのは、「人間の発想って、何がどう結びつくか分からないなぁ」と、匙を投げてほけーっと思ってしまうと同時に、どこか示唆的にも感じる。「"自分は"歩き続ける」ことで、もはや歩むことの出来ない他者を忘れない、とか。

それに倣うとするなら、私は今誰を想って歩くだろうか(父はありがたいことに健在です)

まず思い浮かんだのは2020年に亡くなった同い年の友人だ(まあその人への想いは違う作品に、より直接的に反映されているのだが)。ともに舞台に立ったこともあり、自分の作品を手伝ってもらったこともある人間が20代で、またともに創作をするどころか再会すら出来なくなった、という事実は、その後も道が交わることがあったならどんな話をしただろうか、どんなことができただろうか、と思わずにいられない。

または母方の祖母だろうか……。戦時の話などを話してくれて含蓄のあった祖母は人生の手本にしなければならないほど穏やかな人だった。

ああでも、ともに歩き続けた、という経験で言えば、実家で飼っていた犬か……。多い時で3匹居て、老いてくるとペースがバラバラなので一ぴきずつ散歩に行った。最後までいてくれた者は、死ぬ間際までよく歩いた(歩調はとぼとぼだったが)。夕焼けを半身に受けながら、「もう帰ろやー」とリードを引いても前へ前へと歩いて、なんとか何度も道を曲がって、引き返せずにでないと家へ帰れなかったこともあった。

……

こうやって、亡き人を思い出してみることも、創作の一つの深みに貢献してくれるか、とも思ったが、こうして考えてみると本当に、死に立ち会った経験が乏しいように思う。30を超えて5、6回(書いてないものを含む)だろうか……。

そんな経験は少ないほうがいい、のだろうか……?

なんだか作品のことから離れた文章になってしまった。

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