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20.10.23【週末の立ち読み #3】未来はもしかすると過去に置き去りにされたのかもしれない 〜ブルース・スターリング『ホーリー・ファイアー』(アスペクト)を読む〜

 かつて「未来はここにある。それはまだ広くいきわたっていないだけだ。」と書いていたのはSF作家ウィリアム・ギブスンだった。彼は『ニューロマンサー』という作品で「サイバーパンク」と呼ばれるサブジャンルを有名なものにした。
 この命名についてはそれだけで多くの議論を招くことができるが、本題から逸れるので割愛する。今回はギブスンの盟友、ブルース・スターリングの作品について語ってみたい。

 ギブスンもいまとなっては古典となってしまったものの、スターリングとなるともう知っている人は多くないと思われる。端的に言うと、「サイバーパンク」なる言葉をあえて被って拡散し、ある時点で終末宣言を出した人でもある。いわば理論家でもあった。
 この人の作品は入手しにくい。最近『スキズマトリックス』が復刊されていたが、いま最も入手しやすいのは恐らくギブスンとの共著『ディファレンス・エンジン』だろう。どちらもハヤカワのSF文庫で発刊している。

 エンターテイメント的に面白いかというと、多分物語の構造が非凡すぎてついていけないかもしれない。

 しかし、今でも読んで十二分に面白い。何がといえば、(初版時の当時から見て)徹底した未来の価値観で生きる人々を、丁寧に密着して描いているからだ。
 これはSFやファンタジーなどの異世界を描く作家志望の方にはいい勉強になるかもしれない。違う世界を描くことの深い意味を、スターリングの作品からは常に味わえるのだ。

 今回取り上げる『ホーリー・ファイアー』の物語は2095年(作中で歳を越すため、2章以降は2096年になる)のアメリカで始まる。主人公はミア・ジーマン94歳のおばあちゃんであり、医療エコノミスト(公務員的な役割)でもある。
 彼女の勤め先は、俗に〈ポリティ〉と呼ばれている。医療産業複合体とも呼ばれるこの行政組織は、人々の健康状態を日々監視し、信用を測定した上で生活に関するアドバイスを日々連絡している。ミアは言ってみれば、その管理体制の片棒を担いでいる、体制側の人間だ。

 そんな彼女がある日、元カレの遺言を聞きに出かける。もちろん自分の意思ではない。元カレの方から連絡があったのだ。

 ミア・ジーマンは人がいざ死ぬというときにどんな服を着ればいいのか、知りたかった。
 ━━ブルース・スターリング『ホーリー・ファイアー』小川隆訳 3p

 ミアはそこで元カレと昔話や、世間話をする。この会話やその周辺の描写が尽く未来的で、ちょっと難解でもある。多くは若かりし時の思い出、そして老いに対する諦念が混じった、ノスタルジーな趣きがある。

 しかし、このあとミアは、急激に老いることが怖くなる。
 元カレの持ち物を気まぐれに触ってしまうことで、不用意に思い出すあれこれが怖くなるのだ。

 挙げ句の果てに、通りすがった19歳の若い娘に家を貸し、自分語りを通じて若さのなんたるかを点検する。そこでついに、自分がかつての自分から見て変わり果ててしまったことを痛感する。
 このままではいけない。なんとかしなければ。
 その思いが、彼女を新しい長命措置に向かわせた。

 量も、テクニカルなディティールも、叔父のような慈愛に満ちた安心感も、どこをとっても、ネットの医療アドヴァイスに比肩するアーカイヴをそなえているところはなかった。本格的な長命改良措置は、性的成熟や、マイホーム作り、軍への入隊と肩を並べる、人生の一大事だった。
 同上p85

 ミアが選んだ長命方法は、ネオ・テロメア散逸性細胞解毒法(NTDCD)、という。もちろん架空の治療法だ。
 テロメア、というのは、染色体の末端に存在するDNA(≒遺伝子情報)の保護キャップのようなものだ。ある科学記事では「命の回数券」とも喩えられている。このテロメアが幾度もの細胞分裂で摩耗し、一定以上にすり減っていくと、細胞が死亡し、老化の原因にもなると考えられている。
 NTDCDは、そのテロメアを人工的に再生させて、身体の細胞そのものを大胆に若返らせる、そんな長命改良措置なのだった。

 もっとも、いまとなってはこのテロメア自体も老化の根本的な原因ではないとわかっている。2001年になってもいまだに人類が宇宙の旅を自在にできていないように、時代がSFを少しずつ追い抜いていく過程を感じてしまうのは、きっと僕だけではないはずだ。

 古いSFが向こう見ずな若人のように、ひたすらに乱暴で活気に溢れた未来社会を描こうとしたところで、いつしかそれは古典になる。
 『ホーリー・ファイアー』という作品や、ブルース・スターリングは結局のところ古典になったのかどうか、まだ怪しい。スターリング自身は今も元気にTwitterをやっている。まだまだ彼は現役の作家でもある。

 そんな彼が、コロナ時代をどう読んでいるのかは、正直わからない。しかし、この『ホーリー・ファイアー』という作品は、21世紀の前半に世界的な疫病があり、それを克服したあとの世界を舞台としている
 図らずも2020年、新型コロナウイルスの世界的蔓延があった。現在もその決定的な解決策は見つかっていない。人々はいつしか健康やソーシャル・ディスタンスに過敏になり、ヴァーチャルなものやテレワークに勤しんでいる。
 いろんなスキームが見直される一方で、旧態然とした文化的側面は、ときどき埃を払いながら、真新しいもののフリをして表舞台で踊っている。テレワークだって、日本では20年ぐらい前から夢見られてきたことだった。それが今更のように、必然性に駆られて実現に向かったというだけなのだった。

 だからもしかすると、僕らは遠からぬうちに『ホーリー・ファイアー』の描いた社会に直面するのかもしれない。

「人生の面白い事実を教えてあげる。医療産業複合体のことよ」ベネデッタは素早く二本の線を引いて、XY軸のグラフを作った。「この横軸が時の経過。これが余命の増加。一年が過ぎるごとに、ポストヒューマン余命は約一ヶ月伸びている」
「それで?」
「曲線はあまり直線的ではないわ。増加率自体が増加しているの。やがては増加率が年に一年以上のスピードになる。その時点で、生き残っている人たちは実質的に不死になるのよ」
「でしょうね、たぶん」
「もちろん、本当の〈不死〉じゃないわ。事故や災難による死亡率はまだ残るわよ。特異点において」──ベネデッタは黒く小さな×をつけた──「人間の平均寿命は、事故も計算に入れて、およそ千四百五十歳になるわ」
「その世代の人にとってはすてきでしょうね」
「特異点に達する最初の世代が、最初の真の老人貴族になるの。死んでも去ってくれない世代になるのよ。文化を無限に支配できる世代だわ」
  同上p408-409

 先週読み合わせた『LIFESPAN 老いなき世界』でも、いつしか人は老化を克服するだろうと書かれていた。
 『ホーリー・ファイアー』で描かれるのは、まさにそういう時代だ。おまけに妙な時代感も相まって、非常に立体的な現実味すら帯びている。

 健康や品行方正さをひたすら相互監視し、信用に基づいて評価し、違反したものを同調圧力的に抑圧する世界は、オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』をはじめ、無数に存在する。ユートピア、あるいはディストピアものと呼ばれるものに分類可能だろう。
 ゼロ年代では、伊藤計劃の『ハーモニー』(ハヤカワSF文庫)がとりわけ有名になった。言ってみれば、伊藤計劃はスターリングの後継者でもあった。しかし伊藤計劃は当時30代で病没し、スターリングは健在だ。この両者の関係も、なんだか皮肉めいている。

 健康で優良で、クラシックな世界に生かされる若者たち。政治も文化も経済も、品行方正さを評価され続けた結果、真新しさも改革も生まれない時代に、やがては生きることになるかもしれない。
 ミア・ジーマンはそのことに気づいて若返りの新しい治療に身を投じたのだ。しかし、若返って精神をアップデートすると、結局病室の中にいる自分に嫌気が差していた。彼女は次第に別の人格に──マヤ、という別の若者の人格を作り出して、自らを上書きする。これは若返りの副作用のようなものだったが、彼女はまさにこのことによって、若返ったのである。

 だから、彼女はポリティの医療ケアを全て投げ捨てて、ヨーロッパに逃げたのだった。
 作中のヨーロッパは感性の最先端であり、ファッションやアートに身を投じたい人間の表舞台だったのだ。

 そこでは多くの非行青年や、電子マネーを使いたくないフリーマーケッターや、陶芸家や美学の理論家、プログラマーなどがひしめいている。
 けれども彼らは社会の狭間の、ポイ捨てされた紙屑に埋もれたタバコの火のようにくすぶることしかできていない。火が大きくなれば煙が立つ。その前に踏み消されるような、風前の灯火だ。

 彼らは、生まれた時から身近にあるテクノロジーでひたすら遊ぶしかなかった。ヴァーチャル・リアリティ(作中ではヴァーチャリティという)を改ざんし、独自のプログラムをネットに流したり、観光客の私物を盗難してそれをフリーマーケットに売り捌いたり。
 芸術活動に勤しむものもいる。しかし、行儀悪く。社会保障が配給する医薬品を合成し、ドラッグを作ったり、健康に良いとされる人工肉や食糧を拒み、要素が天然でコントロールされていないナチュラルフードや、カフェインを摂取する。

 コーヒーを飲むことが健康に害をもたらすとされるほどの超健康的価値観が支配する二十一世紀末の世界。そんな中で、あえて不摂生をし、自殺に等しい乱痴気騒ぎを行い、終わらない反抗期を過ごす青年たち。ミア・ジーマンもとい、マヤは、そんなヨーロッパをひたすら遍歴していくのだ。

 若者たちは旧市街を跳梁していた。徹底して非経済的な都会の共生関係を、破壊不能な過去とまだ存在を許されない未来との結合を、築いていた。
 同上p201

 ところで、ホーリー・ファイアーとは、オリンピックの聖火のことではない。芸術家が自らの創造性のイメージをスピリチュアルに表現したもののことで、本作のコア・コンセプトとなっている。
 作中ではほのめかしのようにたびたび描写されている。これは、抑圧された時代に生きるフレッシュな文化の産声なのだろうか。

 文化とは生活スタイルを決定する重要なルーティンだ。朝起きて歯磨きをするようなレベルで、人間の精神の基底にそれは根付いている。
 あるものを美と見なすか、醜と見なすか。価値観の基底には自覚がなくても他者の記憶が差し込まれている。父に認めてもらったこと、母に褒められたこと。学校の教師が推奨したことや、インフルエンサーが昨日買ったと呟いたもの。あらゆるものが現代の文化を作り、経済に波及する。

 すでにSNSの普及により、良くも悪くも多くの人間が土地に縛られずに評価を与え合う時代になっている。遠い国の価値観や影響が強ければそれはそのまま国境を超えるし、Netflixやディズニー、ハリウッドのような娯楽産業が、古い文化を吸収しながら価値観の上書きにひたむきになっている。
 世界はすでに繋がっているのだ。単純にワールドワイドなだけではなく、過去にも、未来にも繋がっている。だから僕たちは選ばなくてはならない。どの価値観に生きるか、どの時間軸に生きるか、どのコンテンツを摂取するのか。どの体験を獲得し、逆にどのような経験をしないのか、などなど。

 魂、という言葉は、僕はあまり好きではない。しかしもし生きることの意味づけを、スピリチュアルに表現することでしか得られないのだとしたら、それはきっと魂に宿る聖なる炎(ホーリー・ファイアー)のゆくえが、決定することになるはずだ。
 少なくとも、ポリティはそれを救ってくれない。それは若返りをする直前に、丁寧に医師が説明してくれている。

「(・・・)人間の意識は自然界をつうじてもっとも高度で複雑な代謝系なのです。魂に医学用語をぶつけることはできても、そいつを箱詰めにしてしまう訳にはいかんのですよ。人のアイデンティティは、注射を与えるようにかんたんに与えることはできません。最終的には、自分の魂は自分で見つけなければなりません」
 同上p98

 どれだけの選択肢が与えられようと、どれだけの時間が人生に与えられようと、それをどう使うかの選択は、自由なのだろう。スターリングの作品には、常にその自由の問題が見え隠れしているような気がする。
 古今東西の価値観を自在に内包した2020年のインターネットは、もはやあらゆる時間の過ごし方のサンプルを供与し続ける、時系列のめちゃくちゃな巨大なショッピングモールと化している。
 だから選択の幅を広げるためには、僕たちは今よりも過去に目を向ける必要が出てくるのではないだろうか。

 本書の後半で、ミア・ジーマンもとい、マヤは、写真による表現に自分の創造性の火を灯す。複製技術時代の芸術だ。
 その意欲は強いものの、なかなか才能は開花しない。ときには、「あなたは才能がないからやめなさい」という人も出てくる。それでも彼女は写真を撮ることを諦めなかった。最終的に彼女はあるものをそのレンズに収めるが、それが一体何だったのか、それがどういう意味を持つのかは読んだ人間に委ねられている。
 けれども、僕にはその結末が非常に啓示のように見えたことは、ほんのりと付け足しておく。

 最後に。本書の刊行は1996年である。邦訳の出版は1998年だ。
 本書は当時から見て百年後の世界を描いている。そんな先までリアルに描けるのだろうか。少なくともスターリングにはそれができたように感じる。だからこそ、本書の描写の細部は、まだ活力と示唆を与え続けるだろう。

 未来は待っていれば来るものではない。かつてウィリアム・ギブスンは「未来はここにある。それはまだ広くいきわたっていないだけだ。」と言ったとされている。
 ならば、こうも言えるはずだ。「未来はきっと過去に置き去りにされたままかもしれない」と。

▼以下書誌情報▼

 本書は絶版ですが、一応書誌情報としてリンクは貼っておきます。

 読みたかったら図書館で借りて読むか、中古をお探しすることを推奨しますネ。

■今週の一冊 『ホーリー・ファイアー』(アスペクト社)
・読みやすさ:やや低め(専門用語やカタカナかが多め)
・面白さ:高い(ただしストーリーより描写や世界観設定重視)
・入手しやすさ:低い(書店で入手は不可。中古か図書館で探しましょう)

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