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20.12.04 【異風祝感想 #1】片手を握れば拳になる。両手を合わせれば祈りになる。 〜那識あきら『渡座《わたまし》の祈り』を読む

 以前告知したイセカイフドキさん(@fudokift)のファンタジー競作企画「祝」について、せっかく参加したし面白そうな作品があるだろうと思って読んだらどれもこれもが面白い。みなさん描写が丁寧だし世界観の掘り込みがうまくてドキドキしますね。
 僭越ながら、自分も負けじと参加しておるわけですが、せっかく参加した企画なことですし、僕も面白い作品を面白いと言いたい!

 ということで、以降しばらく各作品の魅力をいろんな知識を参照しながら感想を書くという暴挙に出ます。

 ファンタジー小説って優れた架空世界を構築されたものほど、その魅力の言語化が難しい気がします。とりわけ「風土記系」に代表される異世界の習俗や自然、文化に根ざした世界観はそれ自体が膨大な情報量、かつ下手な説明が陳腐化するような言葉の魔力に守られているので、うかつに話すよりは心の底にそっと仕舞っておいた方がいいことも多々あります。

 そういうことを思うと、今回のはまさに暴挙というほかありませんが、作者さんに確認した上で、モーレツに勢い余ってやることにしました。あとで怒られたらやめます。

 前置き長くなりました。以下本文です。

(注意:以下の文章はWeb小説の深読みですが、筆者=八雲辰毘古による独断と偏見によって構成されております。そのため作者の思想や意図とは異なる内容を記載している場合がありますので、気になった方はぜひご自身の目で作品を読み、感想や寿ぎを送るようにしてください)

     ◆  ◇  ◆

 手とは不思議な存在だ。四足動物としての前足の名残ではあるのだが、ヒトにとってこれほど持て余す部位はない。
 おまけに手のもたらす触覚は、視覚ほど明確ではないし、聴覚ほど直感に働きかけもしない。頻繁に間違えるし、曖昧なくせに時々本能に呼びかけてくる。それでも、手は意思を持って動かさないと、意味をなさないようにできている。

 きっと作者は手フェチなのだろう。本作『渡座《わたまし》の祈り』は、巧妙に隠されているが、そんな手の魅力が散りばめられた世界観を見せてくれる。
 物語は南国を彷彿とさせる辺境の港町クナーンを舞台としている。棗椰子が生い茂り、麻の葉を繊維に紡ぐ生活空間を持つ町である。そこの紡ぎ工房で働く少女サヴァは、祈る技術と書いて「祈術」とする超自然のちからを行使できる存在だ。

 そんな彼女の住むボルデ王国は、祈術を基礎とした生活様式に満ちている。祈術は複数のジャンルに分類され、それぞれのジャンルを「○○の掌(しょう)」と呼び習わす。この「掌」は「神様に祈りを捧げるための場所のこと」でもあり、「そこで祈る人の集まり」を指すこともある。
 祈術の使い手は「祈り手」と呼ばれ、それらを束ねる存在として「司掌(ししょう)」という立場の人間もいる。いわゆる司祭・司教のような立ち位置だろう。余談だが作者に伺ってみたところ、イントネーション的には「師匠」と同じ感じらしい。この辺りの言葉遊びも世界観を作る素敵な要素となっている。

 物語は、このクナーンに「北の帝国」からやってきたラーノという男をきっかけに始まる。主人公のサヴァが、彼の通訳兼現地案内人として雇われ、世界観の観光ツアーをするような筋書きとなっている。
 そのため、まさに「異世界風土記」というか、現地旅行的な楽しみに満ちている。小さな習俗やモニュメント、歴史や家屋の構造に思いを馳せては、読者はラーノと同じ目線でワクワクすることだろう。

 しかし、ラーノは魔術師である。実はこの世界では不思議なちからに2つの系譜があり、元は1つのもの(神術)だったという。それが、様々な背景のために分裂し、ラーノの住む帝国と、サヴァの住む王国(の辺境)とで系統分岐を果たしたのだった。
 この魔術、というのも作中独自の用語であり、サヴァの住む地域では鬼の術と書いて「鬼術」とも呼んでいる。ちょっと音感的に祈術と重なるのでややこしくなってしまうのだが、このあたりの差別が反映されるのも土着感があって楽しくなる。一筋縄ではいかない、リアルさを持った世界の奥行きを感じるのである。

 この祈術と魔術、実に元が同じとあって、その術式と表現性がよく似ている。ここでは作中での実行シーンを引用し、手の表象を浮き彫りにしてみよう。

 まずはサヴァの行使する祈術のシーン。 

 サヴァは石造りの水場の縁に屈むと、そっと指先を水に浸した。目顔でラーノに合図をしたのち、目を閉じ意識を虚空に開く。
 ――我が神よ、どうかこの声に耳を傾けてくださりますよう……
 祝詞を紡ぎ出しながら、サヴァは水に触れる指となった。指に遊ぶ水となった。揺蕩い溶けあい、離れてはぶつかり、撫でるように覆うように暗い隧道を辿っていった。やがて流れを阻害する砂溜まりを見つけた彼女は、更なる詞に心を乗せた。

 次に、ラーノの魔術のシーン。

 ラーノが身体の前に両手を差し伸べた。両の指を絡ませては解き、まるで空中に何かの文様を描くかのごとく複雑に動かしていく。それと同時に彼は朗々たる声で詠唱を始めた。
 サヴァは胸元をきつく握り締めた。ラーノの声に合わせて足元が揺れるようだった。彼が言葉を吐き出すたびに世界に楔が打ち込まれ、罅割れから熱が溢れだした。
 目の前の崖があらぬ光で覆われる。サヴァが我に返った時、そこには土を固めて作られた階段が姿を現していた。
 ラーノが静かに両手をおろした。
 これが魔術か、とサヴァは深く息を吐いた。

 伊藤亜紗さんの『手の倫理』(講談社選書メチエ)によれば、触感による作法には「さわる」と「ふれる」の二種類の方法があるとし、それぞれに「さわる=一方的なもの」、「ふれる=双方向的なもの」を見出している。

 ここで描かれる超自然のちからの行使は、さながら「祈術=双方向的なもの」、「魔術=一方的なもの」の対比関係と置き換えても成立するだろう。
 例えばサヴァのシーンが「水に触れる指」から「指に遊ぶ水」に変化する──換言すれば、操作したい対象である「水」と操作する主体である「指」が次第に同一化していく過程が緻密に描かれている。さながら祈りが両手を合わせて実行されるもの(いわゆる「合掌」)であるのと似ていて、二つのものを合わせて発動する仕組みではないだろうか。

 一方で、ラーノの魔術は支配的なちからの行使に思える。両手の指先で複雑に絡み合う文様は、おそらく籠目や五芒星、九字の仲間であり、ひいては魔物を封印するための〈迷宮〉や〈結び目〉を暗示する。それは、自然に眠るちからに呼びかけながらも、丁寧に首輪を繋ぎ、飼いならす過程に似ている。
 犬を飼いならすハーネスは普通は片手で持つものだ。これを両手で持つようでは、犬に引きずられているか何かで、制御できていないことの証となる。そのため、ここで描かれる魔術の表象は、究極的には片手で描かれるはずだ。世界の表象を「掌握」し、「手懐ける」。そこにあるのは一方的なコミュニケーション、「さわる」の精神だ。

 思えばラーノの好奇心は、「ふれる」ではない。異文化に興味を持ち、遠慮容赦無く質問を連発する姿勢は「さわる」に等しい。しかし知ることとは物に「ふれる」ことである。したがって、言ってみれば『渡座の祈り』の物語は、ラーノが異文化に「さわる」から「ふれる」に変わっていくドラマでもあるのだ。
 ここには異文化交流に見せかけた、手の文化──世界への接触をめぐる「さわる」と「ふれる」の倫理にも言及している面白さがあるように思えた。もし作者がこの表象を基礎に、より大きな構想を打ち出したなら、きっと今の時代に広く読まれる素晴らしい作品になるかもしれない。そんな気がした。

 ところで、以降は完全に筆者の妄想だが、日本語の古語では、文字のことを「手」と呼び習わすことがある。平安時代の和歌が読まれた短冊の、筆跡を指して文字を書いた手の動きを連想するからだろう。
 この文字を起こすのがラーノの方である、というのも非常に面白く感じた。物語の前半では、ラーノはサヴァに連れられながら(つまり足を動かしながら)、ひたすら手を動かしていたのである。

 本来、手とは生物学的には四足動物の前足の名残である。ヒト科の先祖が二足歩行を開始した瞬間から、それは木を登り、枝からぶら下がるだけでなく、道具を作り、道具を振るうように動いてきた。しかし、何も持たなければ、その手は文字通り「手持ち無沙汰」となり、「さわる」べきものを求めて中空を彷徨うようになるだろう。
 思うに、足は地面を歩くが、手は架空の土地を歩くようにできている。だから現代の我々はスマートフォンを手放すことができず、毎日キーボードで文字を打ち込み、ペンを握っては消しゴムに持ち替え、料理や掃除、洗濯に縫い物と行った手仕事を探し求めている。その手は常に何かに「さわる」ことを欲し、「ふれあい」を求めているのだ。
 我々の文明は「手間を惜しむ」反面、文化は常に何かを「手掛ける」ことを要求している。手作りの弁当が格別に美味しいと思い込むのも、ハンドメイドの製品が今もなおクリエイターの間で魔術的な魅力を持つのも、そのために他ならない。

 かつて、経済学の父アダム・スミスは、市場メカニズムを「見えざる手」の比喩で表現した。これはまさに経済の基盤である「生産活動」が人の手を介して行われたからこそではないだろうか。
 また日本の産業革命は生糸の手仕事から発展した。工場の機械であっても、最初は人の手を欲した。その手仕事の記憶は今となっては工業としては失われつつあるが、今なおかつての生活の面影を残している。
 生活様式の描写を重んじるいわゆる「風土記系」のファンタジー小説で、必ずと言っていいほどこうした手仕事にフォーカスが当てられるのは、まさにこうした生活の記憶を参照することで、僕たちの「手持ち無沙汰」をどこかで解消したいと願っているからかもしれない。そんなことを思わずにはいられなかった。

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■また、参考文献は以下の通り。
アンドレ・ルロワ=グーラン『身ぶりと言葉』荒木亨訳(ちくま学芸文庫)
ダリアン・リーダー『HANDS 手の精神史』松本卓也,牧瀬英幹訳(左右社)
伊藤亜紗『手の倫理』(講談社選書メチエ)
田中優子編『手仕事の現在』(法政大学出版局)

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