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20.12.09【異風祝感想 #2】境界に立つものは、きっとどちらの側にも付けない。 〜いときね そろ『翡翠の子』を読む
少し矛盾する話かもしれないが、ファンタジーの魅力とは異世界の住民その人には存在しない。これはかの『指輪物語』の作者でもある言語学者・神話学者のJ.R.R.トールキンがハッキリと明言していることでもある。
「実は、フェアリー、または近代英語でエルフともいう生きものについての話は割合少ないし、概してつまらない。おもしろい妖精物語というのはたいてい人間が危険いっぱいの妖精王国で夢のような旅をする冒険の話だが、妖精は出てこない」と。
当然だろう。なぜなら、もし妖精がほんとうにいる、それもわたしたちがつくる妖精物語とは別にいるというのなら、妖精と人間とはもともと互いに無関心で無関係なものと定められているのだから、物語のなかで出会うはずがない。まったく妖精国の国境あたりでさえ、よほどの偶然でもなければ妖精に出会うことなどないのである。
──J R.R.トールキン『妖精物語について』杉山洋子訳(ちくま文庫)p33
ここで、妖精と人間の関係性が「もともと互いに無関心で無関係なものと定められている」となっているところが肝心だ。
そうなのだ。僕らは異世界そのものを愛しているようでいて、その自然や登場人物のありのままの感情に触れ直したい(=癒されたい、慰めを得たい、回復したい)のだ。故に根本的な領域では、異世界の出自不明な文字や植生や文化それ自体に関心がないのである。むしろその奥に隠された生活の記憶や手触りに引きつけられるのだと、筆者は思っている。
今回紹介する『翡翠の子』も、そうした魅力を奥に秘めている。
(注意:以下の文章はWeb小説の深読みですが、筆者=八雲辰毘古による独断と偏見によって構成されております。そのため作者の思想や意図とは異なる内容を記載している場合がありますので、気になった方はぜひご自身の目で作品を読み、感想や寿ぎを送るようにしてください)
『翡翠の子』の物語は非常にシンプルだ。副題が「緑の髪のケーニャ」とあるので、ケーニャが主人公として登場する。
しかし、主題はケーニャが姉のように慕っている存在:タオラの成人の儀式をめぐる筋書きとなっている。ケーニャはさながら傍観者として、読者と共に異世界の成人式を見守るカメラに徹する。
しかし、このカメラがぎこちない。本人の生まれも定かでないし、性別すらも「どうやら女の子」とあり、断定されない。どっちつかずであることをことさらに強調するように、ケーニャはその異質を書き込まれていく。
緑の髪に緑がかった肌。食べ物も肉や魚が食べられない。成長だって非常に遅い。その異常性がどこから来るかも明かされず、故にケーニャは祝福の子供なのか、呪われた子供なのかもわからない。にもかかわらず、彼女を育てた養父もモイネ御婆も、「生きていかねば」と一方的に使命を与える。近代以降であれば無責任ことこの上ない発言であっただろう。
案の定、ケーニャは自分の立ち位置を理解できないでいる。根を張ることを許されていない、さながらたんぽぽの綿毛のようにフワフワと諸行無常を受け容れている。自分は自分であるということ以上のことを知らず、季節の移り変わりを肌で感じながらも実感を持たない。もちろんその記憶も薄い。
ケーニャは当初はモイネ御婆の元で育てられるが、老婆が亡くなると、里に住むズルカ小母さんに呼ばれて機織小屋で生きる。そこで会ったのがタオラだ。タオラはケーニャにとって初めて親近感のある女性だった。少女は手仕事を通じて人と繋がり、情緒の糸を紡ぎ出したのである。
ところが、そのタオラが成人する段になって、ケーニャは変化を自覚する。いつまでも同じような日々が続くという幻想が打ち砕かれるのだ。
降ろしていた髪を結い上げ、香油を付け、里の人の輪で踊る。
そういう儀式の一部始終を、ケーニャは斜に構えつつも、動揺を隠し切れないでいた。特に、儀式の直前になってタオラが産毛を剃ってもらうと、そこには目には見えない透明な──壁とまでは言わないが、ヴェールでも掛かったかような敷居のようなものを直感する。
よく研がれた剃刀が光を反射した。その刃が首筋を滑り、肩を滑り、御婆は手慣れた様子で細かいところまで整えていく。
ケーニャは目を見張った。
タオラはもともと身ぎれいにする娘だ。そのうなじや肩をさらに整えただけ。それだけの作業だ。
だが剃刀が走るごとに、彼女は変わっていく。私を見よ! とでも言いたげな輝きを肌に纏っていく。
これは何だ。何の儀式だ。
人類学者でもないケーニャは、イニシエーション(通過儀礼)という言葉を知らない。
A.V.ヴェネップ(へネップとも)の『通過儀礼』では、生誕から成人、結婚、葬式などの、いわゆる「ゆりかごから墓場まで」の儀式の数々に通過儀礼的要素を抽出し、「分離→移行→合体」のプロセスを理論化している。
もっともヴェネップの理論も相当古いものなので、現在の人類学の文献がこれをどう解き明かしているかは、残念ながら筆者の勉強不足で追い切れていない。しかし、今の場面を説明するための補助にはなる。
上述の引用は、香油を塗り、髪を結い上げる最中に、村の長老(女性)から産毛を剃られる場面だ。
ここで産毛とは紛れもなく「幼年期」の象徴物であり、それを分離し、髪を結い上げることで大人の世界との結びつきを可視化する。子供の世界と大人の世界の狭間に立つこの束の間だけは呪術的に非常に危うい状態であり、結い上げた髪はさながら大人の世界につながった命綱のようなものだ。
タオラは人の輪の中で踊ることによって移行を果たす。踊り切ることによって大人の世界への合体を果たす。
しかしターニャはそこに行くことができない。このあまりに唐突に訪れた変化に適応できない。さながら植物が大地に根を張るように、あちらを仰ぎ見ることしかできない自分に気づいてしまう。
ひょっとしたら、ケーニャはこの感情を味わってはいけなかったのかもしれない。
おそらくケーニャは、『指輪物語』のエント族とエルフ族を足して二で割ったような、植物的な異人種なのだろうと僕は仮説する。
だとすれば、まだ自分と他者をを知らない幼さを残すケーニャにとって、この儀式は非常に辛い出来事になるだろう。作品の最後で、ケーニャは愛(かな)しいものを知り、それを失う悲(かな)しみを知る。学校の教師が生徒の入学から卒業を延々と眺めることしかできないように、ケーニャはただ見送る役回りを引き受ける存在となる。
これを受け容れた時、翡翠の子は祝いになる。しかし受け止め切れない時、呪いに変わるだろう。
その境界は非常に曖昧だ。そして扱いにくい。けれども、そのもどかしさが、絶妙なリアリティとして、筆者の気持ちをぐらつかせた。
ところで、現代において、成人式にはこのような敷居経験はあまりないような気がする。筆者も成人式に行った時に大して感慨を得られず、大人になることの実感が全く掴めなかった。その点、ケーニャの悲しみは欠片も再現されるものではない。
しかし入学式、卒業式、成人式、入社式、結婚式、葬式……こんにち形骸化してしまったありとあらゆるイニシエーションが、では現代において影も形もなくなってしまったかというと、僕はそうではないように思える。ただ門や敷居の布置が変化しただけで、僕らは「〜式」とは無関係の部分で、日々敷居を跨ぎ、自分のスイッチを切り替えているのではないか。
例えば、スーパーマーケットの自動ドアをくぐれば、僕たちは「歩行者」から「買い物客」に変身する。自宅のドアを開ければ、家での役割──「母」なり「息子」なり「姑」なりに移り変わる。サーモグラフフィーの前を通れば「36度前後の温度の集合体」になるし、自動改札を抜けると「乗客」に身をやつすだろう。
また、学校のチャイムが鳴り、教室の敷居を跨ぐとある年齢以下の人間は「生徒」になるし、特定の人物は「教師」になる。そこに僕たちを明確に分断する壁はない。辞書的な定義だって存在しない。しかし、自分と相手を意味づける敷居が──境界がうすぼんやりと描かれている。僕たちはそれに気づかないだけなのだ。
例えば、ほんの少し日焼けしていること。腕やすねに毛が生えていること。背が高いこと、低いこと。少しだけぽっちゃりしていること。メガネをかけていることや、癖のついた髪であること。
……こうした小さいけれど大きいことが積み重なると、人は「みんなと同じ」という幻想を打ち壊される。
例えば、公共のプールのスライダーで身長120センチメートル以上と未満で分けられること。サーモグラフィーで37.5度以上の体温のものが弾かれること。こういう敷居に出会すと、自分が他の誰でもない自分でしかないことを呪いたくなる。なぜ自分があちら側に行けないのか、という心の奥底に隠された願望に、いつしか気づいてしまう。
今のはわかりやすい例で書いた。しかし、こんにちインターネットでいろんなものが、古今東西で交わるからこそ、壁ではなく敷居の方が強力な魔力を発揮する。この魔力を掘り起こすのは、かつてはファンタジーがなしえる技だったのではないか、と僕には思えるのである。
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■以下、参考文献
J R.R.トールキン『妖精物語について』杉山洋子訳(ちくま文庫)
A.V.ジェネップ『通過儀礼』秋山さと子,彌永信美訳(新思索社)
ヴィンフリート・メニングハウス『敷居学 ベンヤミン神話のパサージュ』伊藤秀一訳(現代思潮新社)
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