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45.生臭坊主を勘違いさせてる件

寂聴さん(故人)に言わせてもらうなら、全然OKやで。

解説するのも疲れるし単純な内容なので最古の経典スッタニパータ242-248より抜粋:

殺生、切断、縛り、盗み、嘘、詐欺、邪曲の学習、他人の妻への親近

 or この世において欲望を抑制せず、味を貪求し、不浄な存在と交わり、虚無的見解で、不正をし、頑迷なこと 

or 粗暴・残酷であって、中傷を言い、友を裏切り、無慈悲で、極めて傲慢であり、物惜しみし、何人にも与えないこと

 or 憤怒、慢心、強情、反抗、幻想、嫉妬、大言壮語、極度の傲慢で、不当なことに親しむこと 

or この世で、性格が悪く、借金を踏み倒し、密告し、法廷で偽証し、罪を犯す最も下劣なこと 

or この世で、生物に抑制なく、他人のものを奪い、害することに努め、性質が悪く、粗暴で無礼なこと

 or これらに対して貪求し、妨害し殺し、常に(害を為すことに)励む人々

─これが仏教で避けるべき生臭である。決して肉食(が生臭)ではない。

↓自分用メモ

・八斎戒(有名なのは五戒)について何と言ってるかちゃんと確認
スッタニパータSN393「在家(=財産保有)の者の務めを語ろう。弟子にも当てはめます。完全な比丘(出家僧)の法は、財産ある人は達成し得ない。」
394「生物を(殺)害するなさせるな。(殺)害を容認もするな。動くもの(動物、虫、微生物)、動かないもの(植物)、すべての生物に対して敵対(daṇḍa、棒とか鞭とも訳せる)するな。」
398「飲酒を行ってはならない。この(不飲酒の)事柄を喜ぶ在家者は飲ませてもならない。酒を飲むのを容認してもならない。酒は狂乱させます。」
399「愚者は酔いのために悪を為し、また人々を放逸にする(堕落させる)。この禍を回避せよ。それは愚人が好み、人を狂気にし愚痴にする。」

動物と動かないものを区別なんてしていないことや、八斎戒(布薩)は孤独な仏道修行の意味合いよりも集団生活ルールとして説かれた側面が強いことが分かります。

不殺生戒を"殺す"という意味にすると、動物も植物(米も小麦も雑草)も殺せない=食べれないとか無理。
不飲酒戒は「他人に飲ませるな」を実践するのはまず無理。知っておいて欲しいのは、不飲酒戒だけしちゃいけない理由をがっつり述べてること。つまり、他の戒とは一線を画して大事。仏教思想(五感+意manoを制御・抑制することが苦をなくすのに最重要)に照らせばそりゃそうなのですが、現代日本人は不飲酒戒よりも不殺生戒の一側面に変にこだわる人が多い。精進料理ビジネス等に起因した思い込みが原因かなと。ヒンドゥーやユダヤ・イスラム教徒だと不飲酒を凄く気にして、キリストや仏教徒は全然気にしない。これらの全宗教で飲酒って推奨されないのに人間って不思議。

本題と結論:文言通りだと絶対守れない五戒をどう解釈すべき?
普通に考えれば、「絶対守りなさいというのではなく出来るだけ実践してみてね 」なのだろう。だって、完全には絶対守れない。ゴータマさんだって無理。
394をもう少し突っ込むなら「ただ(殺)害するではなく"むやみに"(殺)害する」 だとしっくりくる。経典全体や比丘の行動との整合性を考慮すると、矛盾少ない。
整合性の一例:植物食べるどころか肉食をゴータマさんら出家僧(乞食行で貰う)でさえするのに、在家の人に食肉解体や植物収穫を禁じてるとは考えがたい。筋が通らない。経典に米どころか肉食禁止の文言さえないし。

ちなみに八斎戒は実は毎日守るのではなく、僧団・在家共に特定の日に守ることとされているのはほぼ知られていない。
SN402「半月ごとの第八日・第十四日・第十五日に、八箇条より成る布薩を清く澄んだ意で守れ。また七日、九日、十三日、翌一日もまた同じである」

↓余談(上記で納得できない人用)
経典は所詮、不完全な言語を使用し、生物学(そもそも生物の定義って何?)とかなく、現代人より文才や読む人への配慮がない昔の人が書いたものである。脱字や説明不足や一貫性欠如や科学的におかしいなど欠陥あるのが自然だし実際ある。経典に「食べるときだけは不殺生の例外である」という記述が一文でもあれば、論争が後世に起こることもなかったであろう。八斎戒に限らずもっと配慮して欲しかった。

・五戒ばかりに何故かこだわる人へ
薬飲むな?・寺(出家僧といえないのに袈裟を着て私腹を肥やす僧を騙るペテン師)に親近するな何も与えるな・焼骨保存するな(自然=あるがままを大事にしろ)・死んだらそれまでで死者に過度にとらわれるとデメリット過多(過度な葬儀や法要も本来すべきではない)・占いや祈祷するな(欲望をたぎらせ満たそうとするな)・僧には飲食以外を与えてはならない とかいくらでも他に説いてることはあり改善すべきところがあるのだから、簡単なのから実践すればいいのに変に教説の一部分だけに執着する。理由もない執着を捨てろと散々説くのが仏教です。宗教の解説本(これ自体多くは雑)を少しかじっただけで理解した気に なってる か なりたいor自らの信条の正統性を主張するための駒として利用したいだけにみえる(例:肉食は駄目っていうベジタリアンの人が仏説を利用する)。多くは無自覚でしょうが。

・スッタニパータの一部分切り取りは説明不足過ぎて突っ込み所の塊なので、他との整合性を考えてみる
①食の面
植物食べるどころか肉食をゴータマさんら出家僧(乞食行で貰う)でさえするのに、在家の人に食肉解体や植物収穫を禁じてるとは考えがたい。筋が通らない。経典に米どころか肉食禁止の文言さえないのに。
ちな、聖書では細かい飲食規定があるが、経典には酒飲むなぐらいしか規定はない。それなのに、いきなり生物殺し禁止=塩など除き食禁止は意味不明。水(体内摂取することで殺してしまう微生物一杯)も禁止やで。

②殺しはありふれた事象
石鹸で手を洗うだけで菌を殺す。草原歩けば草や虫踏み殺す(外道の一つジャイナ教は素っ裸+箒で虫を避けたりして面白い)。人間が殺さなくても動物は殺し合う。殺し自体は溢れている。当時の人々や釈尊が動植物殺しにそんなに敏感で意地でも守ろうとする守らせようとするのは考え難い。

③心情面
餓死がポンポンあり、
社会規範(殺人や窃盗やレイプ禁止+警察機構ありでの罰則)すらまともに浸透せず存在もせず、
隣の部族や盗賊が平気で攻めてくるし、
動物に襲われる(インドでは現代でさえ象による被害など大変。インド旅行中に藁?の家が象に壊されて大変ってニュースをテレビでみたし、危険な存在として盗賊や虎や蛇や虻等は最古の経典にも出てきてそれらも一切殺さないとかを一般人に強いるのは常軌を逸している)2500年前の一般人に対して、自己防衛含め生物の殺しを無条件に禁止なんて無理。反発半端ない。ゴータマさんって実利大事にして突き抜けた合理性を持っている印象を受けるのに、理由もなく不殺生を徹底させようとするとは考え難い。

・殺生というか(殺)害してはいけないのは何故か

ダンマパダ130 すべての者は棒に戦慄する。すべての者に生命は愛しい。自己に例えて、殺すな。殺させるな。
133 粗暴なことを言うな。言われた人々はあなたに言い返す。激情ある話は苦である。棒の返しがあなたに触れるだろう。
🐮さんの例
SN296 母や父や兄弟、他の親族のように、牛は最上の友である。牛(の尿)からは薬が生じる。
297 それ(乳)は食料となり、気力を与え、皮膚に光沢を与える。このような利益を知って、かれらは決して牛を殺さなかった。

他人に対しても動物に対しても、可愛そうだから(殺)害するなではなく、役に立つとか(相手aにとってaは一番大事なのでaの自己保身を脅かしたりすることでaに)反撃されたら嫌でしょっていう諭し方をする。「(理由は説明出来ないけど全ての)命は素晴らしいので奪うのは駄目だー」みたいな道徳面や感情面だけに訴える諭し方はしない。

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