見出し画像

母と娘

母は私に所謂女の子らしい格好をさせるのが好きである。なぜなら私に異性の推しが少ないことや彼氏がいないことからトランスジェンダーもしくはレズビアンなのではないかと多方面に失礼且つお門違いな杞憂を抱いていて、それを払拭するべくせめて格好だけは女の子らしくあって欲しいからだと。それは単に母と私の服の趣味が合わないことにも起因するためしょうがないかなと思っているが、恋愛に関する話は非常に耳が痛く耐え難いものである。異性との「出会い」のために大学で様々なコミュニティに参加したりバイトを掛け持ちすることを勧めてくるのだが私は他者に対して恋愛感情を抱きにくい(アセクシュアルぽい)というよりかはそもそも恋愛感情というものがいまいちよく分かっていないので興味がこれっぽっちも湧かない。そんな私に将来的には結婚してほしいやら孫の顔を見せてほしいなどと容易く飲み込めそうにない願望を押し付けてくるのだ。結婚し子供を育てるというのは私が大学生になるまで専業主婦であった母にとって人生の大部分を占めたイベントである。母がそこに幸福ややりがいを見出していたのだとしたら私にも同じ道を辿ってほしいと願うことに合点がいく。しかしながら私も妹も決して手のかからない素直な良い子では無かったし、ましてや母と父の関係は夫婦としては破綻しているように思えた。共通の趣味もなければ父は家事も育児も手伝わない、そこに感謝の言葉があるわけでも無かった。母は昨年パートを始めるまで非常に退屈している様にに見えた。そんな母が最近になってこんなことを言ってきた。「やっぱり結婚はしなくてもいいから、子供は産んだほうがいいよ。」近頃では夫婦喧嘩をする元気すら無くなった母が結婚を重要視しなくなったのには納得がいった。それでもまだ子供を持つことは私に望んでいるらしい。子供がいることはそんなに良いことなのだろうか、決して子供が嫌いなわけではないが人間を一から教育するなんて大役は私に務まるわけがない。そして何より子を宿し出産するという行為を耐えられる気がしない。せいぜいダルメシアンを三匹飼って、ご近所さんからケルベロス使いなどと呼ばれるくらいが私にできる孤独ではない暮らしだろうなどと半ば冗談じみた妄想を繰り広げるくらいには、私にとって子供がいる将来というのは非現実的な話であった。

先日、夕方に駅前の本屋で買い物を済ませ帰路に着いたところでとある親子を見かけた。どうやら塾帰りの高校生の娘とお母さん、特徴もないよくいる親子といった感じだった。そのお母さんがベンチの脇を通ろうとした時足を引っ掛けてしまったのか派手に転んだ。私はそれを見て心配したと同時に、これだけ周囲から注目を集めれば恥ずかしいだろうなと自分の身に起きたとしたらどうだったかを考えた。しかしそれはほんの杞憂に過ぎなかった。高校生の娘が周囲に聞こえるように「お母さん大丈夫~?しっかりしてよね~」と大きな声で笑い飛ばし、お母さんの腕を掴んで立ち上がり何事も無かったように駅の方へ消えていった。それが妙に記憶に残ったのである。子供を持つことは犬や猫などのペットを飼う時と同じようにただ可愛いからとか自分の寂しさを紛らわすことだけが理由になってはならない。育てられるだけの時間やお金、心の余裕も要するだろう。しかしながら自分が躓いたとき、窮地に立たされたときにそっと救いの手を差し伸べてくれる、一緒に笑ってくれる存在がいることはどんなに幸せだろうと思った。私の母が孫の顔を見せてほしいと願うのは真に私の幸せを願ってのことなのかもしれないと、少しだけ母のことを理解できた気がした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?