見出し画像

私の友人②

クラスメートの内私だけが呼ばれなかったパーティーの次の日、私はいつものように授業に出席していた。その日の授業では居眠りする生徒が多く、それが先生にバレるたびにクラスメートがくすくす笑うのだった。それを不思議に思った先生が訳を聞くと、ある生徒が週末に起こった出来事を話し始めた。

「週末にパーティーをしたんです。一日目もすごかったけど、二日目はもっと飲んだからこいつら二日酔いなんですよ。」

あのパーティーに二日目が存在していたことなど微塵も知らなかったし、私はやはりうっかり呼ばれなかったのでは無く故意に、もしくはそもそも存在を忘れられていたのだろうか。私が普段から社交的に振る舞わなかったばっかりに起きてしまったことなのか。こんな時は決まって多くのことを邪推してしまう。本当にそれが私の問題なら自分に非がありました、で終われるのだがそうは納得できなかった。私が辛うじて気を遣っている外見にすら無頓着な、三つ編みにポムポムプリンのヘアピンを着けて授業に出席している彼女ですらも参加できるパーティーに呼ばれなかったことなど悔しくも寂しくもない、あくまで私が呼ばれなかったのは己の性格が悪いのが理由なのではなく彼女達がダサいからどうでもいいパーティーだったのだ、呼ばれなくて正解だった。などと私が一番嫌いな外見で人を判断するという手段を取り自分を落ち着かせようとした。その一方で、そんなダサい格好でも人の輪に入っていけるなんて、顔の造形が整っている人なら私に比べて様々なことが許されているのではないかという思考がちらつき、さぞお気楽な人生でしょうねと口をへの字に曲がらせていた。マスクで表情が隠れていることに感謝すべきである。
そんな不平不満を募らせながら授業は終わった。雑な手つきでパソコンをしまっていたところ、その彼女が私の席の横を通り過ぎた。私に向かって微笑み、手を振っていた。その瞬間私の思考は冷静さを取り戻し、彼女についてあれこれ蔑んでいた三十分間のことを思い出して自分の性格の悪さに打ちひしがれた。授業に行くにも、食堂でご飯を食べるにも、家に帰るにもひとりぼっち。当たり前である。私は性格が悪いから。私に友達がいないのはやはり性格が悪いからである。そう納得してみたものの、やっぱり違う気がした。ぼっちでいることも友達がいないことも悪いことじゃない。それらは性格が悪い人への仕打ちなんかではない。一連の出来事を自分に非があったからと結論づけることは思いのほか難しかった。せめて自分だけでも、性格が良いと信じたかった。だから私は友達は二人でいいと言っておきながらもクラスメートの誘いに応えて、パーティーを楽しみにしたりするんじゃないか。誰かに自分は良い人だと認められたいからそんなことをしてるんじゃないだろうか。私は自分に友達がいないと思う時、それは実際の数の話をしているのではなくて、私は誰かに認めてもらえるほど良い人じゃないんだ、と自分を卑下しているのだ。決して私に関わる人たちが友達になるに値しないだとか思っているわけではないのだ。そう結論づけることで、誰かを嫌いな自分よりも自分を嫌いな自分の方が性格が良いのではないか、と思ったりしている。

と、最近の出来事を文章に起こしてみたが、なんて自己中心的な考え方だろう。やっぱり私は性格が悪いのかも知れない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?