見出し画像

2541文字、知性や倫理や美意識の働きが形骸化、矮小化してる証拠と見なせるタイプの対権威について

2023-8-003

理想と現実は限定前後関係(抽象化具体化関係)であり、被限定の除去状態と不可避な類の限定条件からその関係が成ってる時(抽象化具体化が不十分ではない時)、
被限定は修正余地がなく(内実確からしさが上限)、受容に値すると認めるとして、

真善美におけるそのような被限定は、真善美そのものと代替不可能な内外事情にしか応じない実存(これ自体が抽象化具体化の不十分さ解消状態)から成ってる時でしょうから、
この実存を生きていてやっと、真善美への尊重が形骸でないと言えるはずですし、


この実存でない者同士の間の関係について、協調系競争系によらず、どんな表層形が立ち上がっていようと、目指されていようと、
そこには真善美への形骸でない尊重(ひいては、知性倫理美意識の形骸でない働き)は備わってないと言えるはずです。



したがって、真善美との間に生じてる距離(有限性故の割り引き)が、この実存を生きてる結果、あるいは、同内容の主体像を引き受けてる結果に生じているいないとは、

関係なく否定される(主体を真善美が置かれる場と見なした時の、場に合わさない、
もちろん、主体含め内外性質統合であるが故に、割り引かれ込みで現象であるとの現象観とバッティングする)絶対主義系も、
関係なく肯定される(場の性質に合わせる加工に際し、場の性質の疑似化を放置する)相対主義系も、知性倫理美意識の形骸化状態の現れと見なせるので、


例えば、カントやニーチェの権威に対し、理想と現実との間の上下論構造が理論面なり実践面なりに見られる分を割り引く処理が、見られない地平である、あるいは、標準になってない空間である、

この種の事態が確認された時点で、知性倫理美意識が形骸化してる証拠になってしまう
(場の上に立ち上がってるものは場の疑似でない固有性を損なっているいないで否定肯定されると解せば、

形式に対しても、対象に関して構築した抽象具体関係構造の像である理解についての自他の有り様に対しても、置かれてる場に通用させ続けるという存在条件を引き受けてる個々事例に対しても、

言わば、フェアアンフェアの差異への鈍感さから、競走で問われてる差異を取り出せてない大会運営に修正余地を覚えない的な意味で、肯定否定する能力を持ってない証拠になってしまう)と考えます。


(局面と着目無視の不一致はドーピングによる金メダル的な、問われてる差異の取り違え、取り出し失敗の末の選抜低精度を、
続けて、低精度実験の結果のフィードバックによる仮説改悪的事態を意味しますが、

局面と着目無視の合致への志向を包含する、というか、その志向が林檎は数えられないのに蜜柑はできる的原理不在な形骸成立となるのを防いでくれるだろう、上の実存を、
生きてる結果の認識場か、そうでない為に観点や個別性の疑似化を許してる認識場かを区別せずに、直接把握系や現象学系の主張を繰り出してる事態を目にしたなら、
下で言う単に露呈させただけの実態の受容強要の類であるとの位置づけと共に、上で見た証拠と見なしましょう。


また、この理解を、通用領域の広狭と確からしさとの相関への第一原理扱いが形骸化しないよう、
どういう観点の下でその相関を持ち出すかという、その相関が置かれる場の設定も、
その相関の適用結果とする事によって、その相関を阻害しない受け皿へと場を持ってく対認識の展開として捉え直しつつ、

より確からしいものが取って代わる運動性を第一原理扱いする対存在にも同じ構造を想定し、
強い受容せざる得なさに現象有り様を帰属させにいく知性倫理美意識との遠近ではなく、既存の権威との遠近が存在しやすさに響く現状を相対化しましょう。)



同様に、協調系の理念であれ、競争系の理念であれ、理想と現実との間の上下論構造に縛り付ける内容であるなら、
合わせ込んでる程、知性倫理美意識の働きが矮小化してる証拠(修正余地のなさを、
ひいては、受容せざる得なさの強弱を、偽装してる形になってる証拠)になると解し、

この観点踏まえた敏感さを、理念が持つ権威との付き合い方に関する自他の有り様に対して保っていきましょう。


ちなみに、個別性が根拠になる局面(文系的局面)での個別性捨象や個別性内実無検討は、
明晰さや曖昧さ(この場合、ご都合主義に付け込まれる隙を潰してない単なる両極保有)の源泉として、未だ哲学の主流になってると考えますが、

どちらも、場の疑似でない固有性に即した形に決める、という具体化精度追求に相当する発想
(したがって、精度不足物を具体形パターン網羅の対象に含めてしまい、抽象次元にフィードバックする事のないよう、その追求を前提にする必要性が押さえられた、抽象次元の確からしさ向上試み、
および、対象に関して持ってる抽象具体関係構造の像である理解や実力の上限化)の欠如が、

表層次元の硬軟程度(明晰曖昧スペクトラムも込み)に関して具現した結果なので、
個別性捨象系の理念も、個別性内実無検討系の理念も、上の縛り付ける内容の外には出てない上、


主流哲学(内実へのコミット不在な為に個別性が根拠になる局面では質の隠蔽伴う論理像の強要、内実無検討な為に質の偽装に等しい単なる実態露呈での満足の強要、
なめすにせよ解像度上げるにせよ、表層洗練に留まるこの二択縛り地平)によって事態

(例えば、縛り付けられた平等概念自由概念によって、主体に帰属すべきものという感覚が質隠蔽や質偽装に、
ひいては、帰属関係に修正余地がないという受容せざるを得なさに対する強弱の取り違えに、

もちろん、獲得喪失の有り様込みで先の実存を生きるのと整合しない表層形を自他に要求してる事案、自分の個別性を根拠にした時点で自分が自分である限り仕方がないかのように偽装してる形になる事案など、
罪意識の過不足にも関わる、負わせて良いものかどうかの判断の低確からしさに、陥ってる状況)が解消される事もない


(解消するには、例えば、A=Aの両者における抽象物と具体化結果という差異について、同種の他との差異要素捨象が要請されてる局面では無視するけれど、
個別性が根拠になる局面では、同種の他との共通要素捨象に、対象となる個別性を、その時点で可能なだけさらす処理を引き受ける地平が必要)と言えます。

ご支援の程よろしくお願い致します。