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不当合理と過剰特殊の一方しか否定してない内容(その二択構造に文系を矮小化する近代思考の産物)に、知的権威を認めるのはもう止めよう、という話

2022-9-004

不当合理と過剰特殊を同時否定(その二択状況自体を否定)できていてやっと脱近代
(科学の在り方や個人の精神に関して、分離を達成させただけの地盤の上に築かれた世界からの脱却)であり、
今なお見られる一方の否定だけでは近代(理系的局面でしかいらぬ飛躍を除去できない枠組み)の外に出れてはいない、
この理解が必要と思います。


例えば、一方(前者)の否定でしかないグローバリズム批判が今なお知的権威を装えてしまう
(内実の確からしいものと確からしくないものの混同状況は搾取可能状況でもあるのに、権威にそれを作らせてる事態)などは、
一方否定な内容の全体主義批判が都度、同時否定へと修正される戦後であったならば難しかったはずです。


場に置かれてるものの受ける整合(具体的有り様やポジションの規定)が、同種の他との共通要素の捨象に十分さらされてなお残ってる固有性の保障としての、場の性質の発現保障の帰結かどうかだけ
(例えば、競走という場における何らかのアンフェアは、問われてる差異の下での整合を損なう、単なる捨象の失敗と見なす)を、

社会に対しても内面世界に対しても問題にしていれば(この意味で過大要求過小要求を抑えていれば)、
その類の全体主義批判(例えば、自分が次善の策を局面変化無視で居座らせる過保護については許しながら、
社会のそれについては許さない、あるいは、次善の策自体を社会には許さない的な、具体化精度自体を問題化してるとは言えない反応)とはならないわけですし、


理系的局面(対主観はじめ、同種の他との差異要素の捨象が要請されてる局面)における整合しかその帰結とはならないから、
対文系は近代以降もいらぬ飛躍を許してしまってる(不当合理と過剰特殊の二択世界になっただけ)のであって、



結局、場に置かれるもの(人に限らない)が受ける扱いに関する許容条件についての不理解
(引き受けの条件として帰属の修正余地のなさを、

つまり、内外境界意味する有限の与件性と、より確からしいものが取って代わる運動性、これらに帰属がある現象と言える状態を、
求めたり目指す態度の欠如なり形骸化なりを意味するそれ)が、

搾取はじめ、負わされるに値しないものが通ってしまう事態に対する知性や倫理の低通用の原因
(自由観や平等観の中身が、そこの値するしないの問題化ではなく、値しないもの込みな都合の押し付け合いの問題化になってる原因)であり、


局面と着目無視の合致(差異の取り上げを上で言う現象としてのそれへと持っていく配慮)から知性や倫理を立ち上げ直す

(いらぬ特化を避ける生を、
つまり、内在事情外在事情の代替不可能な要素にのみ応じる主体像への志向をもって、自己の有り様を上で言う現象へと持っていく生を、

受け手に求めないまま教育を語る、したがって、獲得に関し内実の確からしさ差異について不問であり、
そこが不問な表層形断罪次元を生きる人間、当然、内実が確からしいならその反映と言える表層形は肯定する平等観とは無縁な人間を作るものでもある、教育論の一掃込み)
必要がある、と疑えるように思います。



なので、不当合理と過剰特殊の一方しか否定してない内容(その二択構造に文系を矮小化する近代思考の産物)に、知的権威を認めるのはもう止めましょう。

その二択構造故に文系的局面における具体化精度を問題化できてない(当然、持ってる抽象像は改悪フィードバックの反映物)、
したがって、理系的局面におけるいらぬ飛躍除去の運動性のみが機能し得る(文系的局面におけるいらぬ飛躍除去をそれで済ましさえする、局面差異に鈍感な)近代思考の持ち主が、

例えば、自由概念を知っていると思っていたところで、いらぬ飛躍のない像をいらぬ飛躍のない形で持ってる事にはならない
(自己帰属についての抽象像の改悪問題も、二択構造によって矮小化させられてると見るべき)わけで、


近代以降の文系の知的上層にとっての、文系域に関する知るや考えるは、そういう代物であると位置付け、
知的権威による搾取が可能な状況でなく、難しい状況(帰属を修正する働きが不十分な知性や倫理を認めない状況)の方に与しましょう。




以下、投稿用の短縮版

例えば、不当合理だけを否定するグローバリズム批判が今なお知的権威を装えてしまうなどは、
不当合理だけを否定する内容の全体主義批判が都度、過剰特殊をも否定する内容へと修正される戦後であったならば難しかったはずです。

今からでもとにかく、科学の在り方や個人の精神に関して、分離を達成させただけの地盤の上に築かれた近代世界から、知性や倫理を脱却させてる人を増やし、
増えるほどカバーできてる専門領域も多岐に渡ると期待できるその集団が、確からしいとする方向
(脱却してない知性は対理系でしかいらぬ飛躍を除去できない)に状況を修正していきましょう。


場に置かれてるものの受ける整合(具体的有り様やポジションの規定)が、同種の他との共通要素の捨象に十分さらされてなお残ってる固有性の保障としての、場の性質の発現保障の帰結かどうかだけ
(例えば、競走という場における何らかのアンフェアは、問われてる差異の下での整合を損なう、単なる捨象の失敗と見なす)を、

社会に対しても内面世界に対しても問題にしていれば(この意味で過大要求過小要求を抑えていれば)、不当合理だけを否定する全体主義批判とはならないわけで、

結局、場に置かれるもの(人に限らない)が受ける扱いに関する許容条件についての不理解が、搾取はじめ、負わされるに値しないものが通ってしまう事態に対する知性や倫理の低通用の原因
(自由観や平等観の中身が、そこの値するしないの問題化ではなく、値しないもの込みな都合の押し付け合いの問題化になってる原因)でしょうから、

局面と着目無視の合致(取り上げる差異が場の性質の発現を損なってる類にならないようケアする方針)の下に知性や倫理を立ち上げ直しましょう。

ご支援の程よろしくお願い致します。