無題0

意識や志について高くあろうとしてる人達に望む事(投稿した編集バージョンも付記)

2019-8-006

自分の事を意識や志が高いと見なしてる人がいたとして、その人が、
欧米主導で構築された現世界(特に、世界に張り巡らされた近代型権利)の欠陥を捉え切れてなかったり、
捉え切れてない人やその主張をモデルに含めてたら、厳密には勘違いと思います。

同種の他との差異要素の捨象と共通要素の捨象、前者に特化した欧米知性が世界標準であるのに、
(後者の不在は、同種の他との差異が代替不可能な固有性かどうかを判断する能力の衰退、
それによる、局面の固有性に合わせない理性、
ドーピングしてる選手としてない選手の扱いに差を付けない的な管理下での、情報の整合や意見の選抜、
そうした症状を知性にきたす事必至です)
つまり、置かれてる状況が歪んでる(特化による歪み)のに、
その状況に特化するも同然なスタイルで何かを得ようとするのは、
理想を犠牲にする程度が、
条件上最小となるよう現実を成り立たせる(置かれた場の代替不可能な固有性にのみ合わせた加工に限る)、
というある種のチキンレースから早々に離脱してるのと変わらないからです。

また、倫理の実質を、
場の代替不可能な固有性と着目無視との合致配慮(問われてる事を違えない存在戦略)と規定した場合、
局面と捨象とが連動してない欧米知性を前提にしてる状態(世界や個人)は、
実質を欠いた倫理(形骸な善や正義)しか持てない事を意味するので、
ドーピングしてメダルを得る試み(茶番や形骸で満足)を意識や志が高いと見なしてる形ですらあります。

逆に言うと、意識や志について、勘違いでなく高くありたいと思うなら、
欧米枠組みの限界を超えた地点に目標点を置く必要があるわけです。
その際は、次の理解を押さえるべきと考えます。
アリストテレスはプラトンの乗り越えに失敗した、
理想と現実の分離構造は、場に置かれる前後の関係の一種に過ぎず(主語と述語の関係も同じ)、
抽象化と具体化条件割り出しの最大限追究(満足すべき地点)、
その巨視化としての、抽象と具体の行き来(あるべき歴史性)、
この微視巨視の二つをもって乗り越えられるべきだった、
(同種の他との共通要素の捨象をもって為されるその二つが有限性与件下での通用領域最大化としての自由)
ガリレオの、同種の他との差異要素の捨象に内容を限定したその二つによるアリストテレスの乗り越えが、
近代の功罪の原型であり、
近代の枠組み(洗練された理系的アプローチの領域侵犯と真っ当な文系的アプローチの不在)の中に、
我々は未だ身を置いてる。

(矛盾の乗り越えは、矛盾だろうとカオスだろうと、いらぬ飛躍が除かれてるなら万事OK、
とのスタイルによる修正を内容とするべきで、
通用領域と確からしさの相関、与件としての有限性(内外境界)、この二つにしか頼ってない状態が、
その除かれてる状態を意味し、かつ、上の微視巨視を導くと解すれば、
ヘーゲルがカントの乗り越えに失敗した事情も、アリストテレスと同じ構造と言えます。)

例えば、既存の平等観の欠陥(先の倫理の実質を内包してない)から目を背け、
平等の名の下にアンフェア(その場その場の本質に即した扱いへの不支持)まで保存、保障する、
というセンスの賜物である近代以降の権利も、その枠組みの弊害(害は甚大)である一方で、
先の合致配慮を基盤とした、
場の本質(先の微視巨視の二つによって把握)を損なわないように形式や帰結を組み上げる能力を、
内面や局面、自国社会や国際社会等、場の管理者の要件(権限の根拠)と規定すれば、
主権と人権の、右派と左派の対立構図(論点がずれる迷惑なパラダイム)も必要ありません。
(戦争の反省は分捕り全般の否定、整合性や根拠に安易な主張も分捕りの一環、そう規定すれば、
既存の権利観から成る国連がその主要な意義を満たしてない、
分捕りが許される存在を認めながら平和や正義を語ってる形の、
つまり、好きな分捕りと嫌いな分捕りがあると言ってるだけの国連の現状が刷新対象である事は明白です。)
なので、意識や志について高くあろうとしてる人達に対しても、
その枠組みの再生産に励んでる形の者と、先の合致配慮の下で捨象してる者との間に、
後者になってくれるような、後者が多数派となるような、扱いの差を付けましょう。



2019-8-006'
哲学関連のお話スレに投稿した文章


理想と現実の分離構造は、場に置かれる前後の関係の一種に過ぎず(主語と述語の関係も同じ)、
抽象化と具体化条件割り出しの最大限追究(満足すべき地点)、
その巨視化としての、抽象と具体の行き来(あるべき歴史性)、
この二つをもって乗り越えられるべきで、アリストテレスはプラトンの乗り越えに失敗。
ガリレオの、同種の他との差異要素の捨象に内容を限定したその二つによるアリストテレスの乗り越えが、
近代の功罪の原型で、我々は近代の枠組みに未だ身を置いてる。
フェアアンフェア(その場その場の本質に即した扱いへの支持不支持)の差異を捨象する、
つまり、アンフェアまで保存、保障するセンスの賜物な近代以降の権利もその枠組みの弊害。

置かれてる状況が歪んでるのに、その状況に特化するも同然なスタイルで何かを得ようとするのは、
理想を犠牲にする程度が、
条件上最小となるよう現実を成り立たせる(置かれた場の代替不可能な固有性にのみ合わせた加工に限る)、
というある種のチキンレースから早々に離脱してる形。
例えば、国連も既存の権利観から成る為、分捕りが許される存在を認めながら平和や正義を語ってる形、
つまり、好きな分捕りと嫌いな分捕りを言ってるだけの機構。

以上を認めると、同種の他との差異要素の捨象と共通要素の捨象を局面に合わせ使い分ける能力の、
(前者捨象に特化してる世界標準知性は同種の他との差異が代替不可能な固有性か判断する能力の衰退必至)
また、内面や局面、自国社会や国際社会等の、場の管理者の要件(権限根拠)であるべき、
場の本質(先の二つにより把握)を損なわないように形式や帰結を組み上げる能力の、
基盤となる、場の代替不可能な固有性と着目無視との合致配慮(問われてる事を違えない存在戦略)を、
持たない者は全て、どれだけ意識高く、志高くあろうとしても臆病者、茶番や形骸で満足な者になってしまう。

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