無題0

マルクスへの肯定否定が過剰となる原因として、近代が齎した解決されてない二つの課題に焦点を当てた、彼への再評価で押さえるべき点について(軌道修正案を添えて)

2019-11-004

仮に、労働者の社会的地位が変わったり、社会に個人が先立つ理論の時代を終わらせたとしても、
また、階級闘争の歴史が確認されたところで、それは、
質的に不変か、良くて非効率な質向上を伴うポジション入れ替え現象の話でしかありません。
つまり、マルクス系の言説は反動的解決センスという欧米の枠組みから外には出てないと言えると思います。

そもそも、物質側面や実践への着目(物質事情や実践局面への単なる外在場性質以上の価値付け)の時点で、
反する対象があった(かつ、その着目が、場の本質の引き受けそのものへの収束を果たしてない)わけで、
実存主義や分析哲学らと同様の、形而上学(ヘーゲル)への反動の一種と見なせますし、
フェアアンフェア等の主体の内実を問わない近代型権利観(財産権を背景とする所有感覚含む)を前提に、
自由と平等、保守と革新を対置させる、質的不変なポジション入れ替えの枠に業績は取り込まれたままです。

従って、マルクスを再評価するに際しては少なくとも、
カントの示した分離問題(プラトンの分離の近代版)への正答不在の弊害としての、
ヘーゲルやヘーゲル批判が持つずれ起源のバイアス、
自己や所属の保存や繁栄を前提に計算し、社会性や権限を導くというような、
社会契約論的な統治権威の正当性説明の採用弊害としての、特定の権利観起源のバイアス、
それら近代が齎した、未だ解決されてない課題に対する全体像を把握しておく必要があると思われます。
(反動的な解決センスそのものの全体像把握については、二つ前の考察文002を参照。)

その分離(対象を加工なしに掴まえられない)に対しては、乗り越えを試みるのでなく、
内外分離(有限性)を与件(内外の性質統合が現象)として認めつつ、
抽象化と具体化条件割り出しの最大限追求(理解の精度向上の実体)、
場の本質と着目無視(次元設定として保存する捨象形)の合致配慮、
この両者の相補性から成るいらぬ飛躍の除去が施された加工に、
引き受けを限る事(場の本質にしか応じさせない態度の実践)を目指すべきです。

通用領域を拡大する(より確からしいものが取って代わる)運動性(具体形パターンの網羅志向)を、
第一原理と認めるにせよ、それはあくまで、有限性の代替不可能化
(有限者が負うべき責任に当たり、無限と有限の関係正常化の働きとして信仰を見れば、信仰と矛盾せず)
として働くわけです。
そこの最大限追究を微視的とした場合の巨視としての、抽象と具体の(例えば、仮説と実証の)行き来を、
あるべき歴史性(抽象と具体は価値対等)と規定する事が、
反動でない対ヘーゲル(抽象重視な動性)であると見なしましょう。

また、統治権威の正当性については、
妥当不当判定の通用領域拡大(確からしさ向上)を伴う次の構造を下敷きとした説明を採用すべきです。
不当な扱いを受ける事への拒否感は、自己絡み限定から他人や自然、概念等にまで受け手を拡張する事で、
妥当不当判定の通用領域が拡大し、
場の本質(問われるべき事)に即した割り振りの保障(修正作用の具体形も対象)が内容の正義観へと至る。

置かれた場への通用という存在要件(起点)と、
整理コンセプトのごとく存在するしないや存在の形を規定する、場での存在の原理(終点)を、
その構造に重ねる事で、国レベルの統治の権限根拠(受容条件)だけでなく、
内面世界や国際社会、無数の局面における場の管理者要件として、
場の本質を損なわないように形式や帰結を組み上げる能力の保持(あり得る負荷への強度)が位置付けられ、
社会構成の組み直しから個人レベルの所有対象の扱いまで、
近代型の権利観に頼る事なく、あるいは、齟齬の蓄積を地震のように待つ事なく、
その原理を上の内容の正義観(国のアイデンティティは保障対象の一部)でもって統一する事が、
反動構図を文脈次元で齎してる近代型権利観を相対化する事が、可能になるからです。

以上の二つバイアスやその解消についての理解、
さらには、欧米の反動的な解決センスそのものについての理解をもってマルクスを意味付けし直し、
経済や政治への解釈に悪影響を与えてる、彼への肯定否定の過剰を正しましょう。

同時に、絶対者の自己実現という枠組みの類型から歴史観を解放する事で、
つまり、確からしさそのものである無限者(絶対者)は、
より確からしいもの(通用領域の広いもの)が取って代わる運動性によって常に自己足りていて、
その運動性を成り立たせるべく要請されてる有限者(抽象にとっての具体に当たる立場)による、
無限者の持ち出され方の成否(確からしさが何について問われてるのか、という限定の仕方)は、
上の有限者が負うべき責任の果たし具合次第という内容の、有限者の自己責任な歴史観に替える事で、
抽象と具体の行き来にいらぬ飛躍が含まれてる歴史展開や、
場の本質にしか応じさせない働きを持たない社会統治を、
許容しない(まともな内実を欠いては立ち上げない)という軌道修正を図るよう、共産思想やそれへの共感性に促しましょう。

ご支援の程よろしくお願い致します。