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3241文字、終わってない近代を終わらせる為の最初の一歩について、批判が近代性に留まってる対カントにも触れて

2024-1-001

空気を読んでるという像(場を荒らしてる荒らしてないという有り様の位置づけ)も、
場に合わせてるという表層形と場に合わせてないという表層形との間の差異について、

重視する立場と、場の本質(代替利かない要素)に合わせた結果が、場に合わせてるという表層形になる事も、場に合わせてないという表層形になる事もあるだけとして軽視する立場とでは、中身が違うはずです。


例えば、利己利他を個々具体とする抽象物を用意して、利己利他がどういう割合で具体化されるかは局面次第とする。
真善美から、あるいは、帰属修正として抽象化できる知性倫理美意識から個々がどういう割合で切り出されるかを局面次第とする。

こうした絶対主義対策にも繋がる(したがって、局面次第物の表層形を局面無視で定めながらの言動に、
疑問が持たれない知的空間の現状を変えるには増やすしかない)後者立場の論点は、

場の個別性が同種の他との共通要素捨象に十分さらされているいないにある(これにより相対主義対策も備わる)とすると
(場を内在場も含むものに拡張すれば、限定を受けてない状態の準備と引き受けざるを得ない限定条件の割り出し、これらから成るより厳密な具体化精度の論点化となる)、


前者立場はこの論点を埋没させてる形ですが、経済活動なり人間関係なりにおいて需給成立自体が重視される環境、
あるいは、自他への過剰救済や表層整合に留まる意味理解が問題視されない倫理知性環境では、
十分さらす事によって捨象される部分には応じない後者立場と比べて、それが有利に働くはずです。



教育で言うとこの問題は、一流大学に入れるだけの学力があるという時のその状態が、
点数獲得に有利な前者立場で得られたケースの、教育環境へのいらぬ特化を可能なだけ避ける後者立場で得られたケースに対する有利性、

さらには、前者立場の知的権威への至りやすさが引き起こす、権威が、場の本質と場の上に立ち上がってるものとの整合に働くどころか、
不整合(特に、欧米文系の産物が、個別性を根拠とする局面でも、個別性が同種の他との共通要素捨象に十分さらされているいないを気にしてない、
という観点から捉え直される事なく、現実構築に用いられてる事態)の保存原因に、

ひいては、負わされるに値しないものを負わせてくる世界有り様(修正余地の有無を区別しない、したがって、悪貨が良貨を駆逐したあげくの意義崩壊展開まであるのに済ませてる疑似解決な相対主義系だけでなく、
修正余地のないものまで拒絶する、つまり、解決不能なものまで解決対象にしてる疑似問題な絶対主義系も込み)の保存原因になってる点に相当すると思います。



とはいえ、妄信と反動反発の関係が、小中学生の時期に既に前景化してる以上、
前者立場から後者立場への移行課題は義務教育期に常に存在してると言える為、
義務教育期におけるこの移行課題が、他の教育課題に先立ってない点にまで上の原因は遡れるので、

状況上の自然な振る舞いというレベルなら小学期前半でも可能だろう、場の疑似でない個別性に即した振る舞いから見た過大反応と過小反応の同時否定
(対他者では平等方針として、対自己では自由方針として)の義務教育への組み込みを求めていきましょう。



ところで、我々は誰もが、通用してる領域の広狭と確からしさとの相関を根拠に肯定否定してる為、
肯定否定については、何の差異に関してその相関を持ち出すか、という観点設定に対するその相関の利き具合をもって妥当不当を位置付けられるだけに思われます。

この理解(場の個別性の確からしさへの焦点化)と整合してない点では同じである、
通念的な善人悪人像から、倫理的観点放棄(相対主義的価値観の前面化)へと反動反発する事なく、
あるいは、絶対主義的な正義像から、相対主義的な正義像へと反動反発する事なく、


理想を割り引く程度を最小にしてる現実、という内容(特に、理想を疑似としてしか持てない事態と同等である、
問題状態についての抽象度不足もケアしてる、先に見た厳密な具体化精度の確保)になってる対真善美と、
なってない対真善美(割り引き自体拒否も、割り引き無検討許容もこちら側なので、絶対主義的、相対主義的というだけでここに含まれる)、

という上の理解と整合してる枠組みに差し替える上で、先の移行課題は避けられない為、
上の平等方針自由方針の採用は、自他の肯定否定反応に対する、実質を押さえた妥当不当位置づけのファーストステップと見なせるでしょうし、


ガリレオデカルト以降の世界が持つパラダイムを、同種の他との差異要素捨象の、個別性が根拠になる局面への領域侵犯に対する、
妄信と反動反発(同種の他との共通要素捨象の保障とは無関係な否定)と解せば、

その採用促しの教育への組み込みは、終わってない近代を終わらせる為(そのパラダイムの産物である、
不当合理への批判にかこつけて過剰特殊を押し通す言動も、この攻守を反転させた言動も、
どんな権威がまき散らしていようと取り合うに値しないものとして扱われる空間構築の為)のファーストステップでもあるはずです。



例えば、対カントにおいて、個々人の個別性を捨象する点から批判するだけでは、
不当合理への批判にかこつけた過剰特殊の押し通し(リベラルとリバタリアンとの間の上下論)に留まるので、

個別性が疑似化してるしてない(個別性を同種の他との共通要素捨象に十分さらしているいない)の差異の埋没が(リベラルの場合)、
個別性が根拠になる局面と個別性捨象との齟齬の帰結として生じてる点を焦点にすべきと思います。


また、理性的なものと欲望のような生命的なものとを対置させた上で、
後者を割り引くもの、取りこぼすものとして前者を捉える的内容を採ってるケースでは、最初の批判とロジックが同じですし、

人以外と人間形式(カントが依拠してるもの)とを対置させた上で、
対人間のフラット化と共に、人間形式に振り回されているいないの差異も埋没させるなら、最初の批判とロジックの攻守(不当合理と過剰特殊の位置)が反転してるだけと言えるはずです。

加えて、前者対置の展開させ方に対する修正内容は、人間形式を、出産後の対赤ちゃんまで含めた性別システムの個別性、
次元設定自在性、この二つで捉えると、後者対置の展開によって埋没してるものと同じであると思われ、その修正内容としては以下が言えると考えます。


現象を内在性質と外在性質の統合物としつつ、両性質が修正余地を持たない時、現象は最も確からしく、受容に値するとする現象観を採用し、

赤ちゃんとの直接性に由来する不安定(価値確定性と実際に受ける扱いとの乖離)や間接性に由来する不安定(価値不確定性)の解消欲求を、
代替不可能な内外事情にしか応じない実存方針と獲得喪失とを整合させ、獲得喪失に修正余地なさを持たせる枠組み

(この実存方針は、理想を割り引く程度を最小にしてる現実に相当する為、通念的善人悪人像に関して先に見た、
妄信と反動反発の二択地平の者から受ける、移行課題分の断絶による無理解を覚悟する必要がある枠組み)に、
落とし込む処理をもって、現象を受容に値する状態へと持ってく為の対内在とし、


理性を局面と着目無視設定とを一致させ続ける能力とした上で、次元設定自在性の運用原理と見なし、
フェアを場の疑似化してない性質に即してる秩序への支持的態度(場を内在場を含むものに拡張すれば上の実存方針と同等)とした上で、理性にその実質として伴わせ続ける

(特に、個別性が根拠になるならない、という局面性質を踏まえさせ、理性が同種の他との差異要素捨象に特化するのを防ぐ事で、
自由の名の下に内在物の上に置いたり現実事情をくまない、言い換えると、帰結有り様という表層形からは解放されても別の表層形には囚われてる、という意味で抽象度の足りてないカント系含む、
既存の理性像から理性を解放する)処理をもって、現象を受容に値する状態へと持ってく為の対外在とする。

ご支援の程よろしくお願い致します。