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望ましい状況を思い描く前にすべき事について(自由平等の捉え直しに触れつつ)

2022-12-002

対象が持つ原理を見出して問題対応に生かしたり、護るべきものを割り出してそれが保障される形へと再構築したり、

それらも結局は、その時点で可能なだけ抽象化具体化の不十分さを縮減してる(内在性質外在性質をより確からしいものにしてる、

もっと言うと、内外境界意味する有限の与件性、より確からしいものが取って代わる運動性、これらに帰属があるという、
表層形の望ましさ程度に関係なく帰属に修正余地がない状態、したがって、受容に値する、負わされるに値する状態へと持っていってる)に過ぎないのでしょうが、



問題は、理系が近代以降、実際にそういう内容になってるのに対して、文系は近代以降も、
存在と引き換えの要素(雨が降ろうが槍が降ろうがそれである限り引き受けざるを得ないもの)以外を可能なだけ取り除いているいないの区別なく個別性扱いされる事情

(その要素以外に対する捨象が対個別性において要請されない状況は、不当合理への批判が過剰特殊の保障への誘導を意味する事態でもあり、
内実不問という形で疑似化部分をそうでないかのように扱わせる搾取可能状況を含ませた個別性保障の、ひいては、奪い合い世界の為に、
不当合理を仕立て上げるという、搾取や冤罪や矮小化といった帰属操作と引き換えの尊厳主張さえ正当化可能にしてきたそれ)で、

内容的には形骸である
(文系の権威が、理解や実力の中身である、対象に関する抽象具体関係構造の像についての抽象化具体化不足の解消を、ひいては、帰属修正余地の縮減を意味しない為、
表層次元のいらぬ飛躍除去に着目させて、内実次元のいらぬ飛躍を通しにいく働きに成り下がってる)という、

文理格差(個別性が根拠になる局面ならない局面との間の、帰属の修正余地除去の達成度差異)と思います。



客観視レベルでの個別性捨象が可能になる一方で、
局面と着目無視との合致に、認識的な自由平等を、認識的ないらぬ飛躍除去を見出さないまま。

取り出すべき差異が取り出されるように検証設定を組めるようになる一方で、
場の疑似でない固有性の反映されたポジションや具体的有り様に、実存的な自由平等を、実存的ないらぬ飛躍除去を見出さないまま

(逆に疑似化を通した獲得、つまりは、場の非尊重という、自身の内面世界も場の一種である以上抽象具体関係構造化の不具合と言える事態に、自由平等を、いらぬ飛躍のなさを覚えるまま)。


既存教育というフィルターを通過した結果が、こうした有り様であるのも、
したがって、事実上の不当獲得が当然発生してるその被害にもかかわらず正当化される世界

(偶々こういう場であるのでこの帰結になる、という現実への妄信はもちろん、
否定反応が場の性質の疑似化除去へと向かわなくても正当化され得る世界と捉え直すと、

向かっても表層次元の疑似化除去止まりな実態主義であれば、事実上妄信の一種と言え、
また、経済的側面ではたまたま良い位置なので妄信的だが、知的側面ではたまたま良くない位置なので反動反発的だといったご都合主義も当然想定可能)
であるのも、


上で見た文系の形骸性の現れでしょうから、望ましい状況を思い描く前にそこの形骸性からの脱却を果たさない限り、望ましさへの志向は奪い合いに帰結する

(負わされるに値しないものを負わされる状況自体は変わらない、単なるポジション操作合戦に終始する、これを自由平等と、
言わば、恣意的解釈を可能にすべくあえて文脈を無視するような話なのに、解しさえする)と捉えましょう。



注、
上の文章に限らず、哲学者千葉雅也さんのツイッターでの主張(不当合理への批判にかこつけて云々の事例を繰り返してるように見える)が通る余地を、
潰しながら加筆してるつもりな部分もあるので、余裕があるならばそちらもご参照下さい。

ご支援の程よろしくお願い致します。