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3666文字、人生や世界を、確からしい内実の反映なら表層形に拘らない可能性開放に対する、妨害から解放するのを可能にするのは、評価基準の刷新でないか

2023-4-002

代替不可能な内外事情にしか応じない実存は、場の疑似でない固有性尊重の意味でのフェア志向(具体化精度確保への志向)を含んでますから、その実存への志向は、

フェア志向でないのに選抜したもの(ドーピングによる金メダル的な事態)を妥当な選抜結果
(自分が自分である限りそうならざるを得ない的ニュアンス込み)であるかのように自他に扱わせる茶番化強要についても防いだり、距離取ったりを可能にするでしょうし、


言動に対する、受容に値する状態に至ってない段階のものを肯定してる側面の含有程度の把握
(余裕のない局面では成立自体を、余裕のある局面では成立の内実確からしさを重視する推移構造が事実上取り込まれてる、上で言う実存と、
整合的でない獲得を避けない、という安易さの含まれた専門化なり生なりにいらぬ特化を見るなど)や、

言動が、社会なり歴史(抽象化具体化の交互反復から成る同一性)なりにおける受容に値しないものが肯定されてる状況
(個人の歴史で言うと、5秒前と現在の間のその人の同一性における抽象化具体化の不十分さが、余裕あってなお放置されてる的事態)を、改善させたかより悪化させたかの把握まで含めて、

個別性が根拠になる局面での対象理解(次善の策というものがある事から分かるように、
内実の確からしくないものが状況的に要請されるケースもあるわけで、もちろんその場合、
状況の要請を超えた扱いには、その分だけ帰属関係に修正余地が生じてる)としてれば、

文系知性や倫理や美意識の権威に関する功罪を取り違えたり、取り違えられた功罪を真に受ける
(その結果、実質を欠いた知性や倫理や美意識の産物への実質を欠いてないもの扱いに加担する)展開を把握精度次第で抑えられます。


なので、妄信的に受容する程こうしたフェア志向や対象理解を捨てる方向に特化してしまう
(つまり、文系者として形骸化してしまう)既存教育と整合的な、したがって、知性や倫理や美意識の形骸性程度(帰属の修正余地への許容程度)を評価できない評価基準との決別を果たしましょう。


(言動が局面の個別性と一致した着目無視を反映させたものかどうかは、小学生でも自他の見せる反応が過大か過小かの評価はじめ、十分に持てる基準であるし、

局面と着目無視との合致化とは関係ない内容の対対立や対差別の強要などでその基準を埋没させてきたこれまでから下で言う内容へと、教育通して育てる知性や倫理や美意識を捉え直しつつ、

ガリレオ以降、同種の他との差異要素捨象用いた抽象化具体化の交互反復を取り込んでる理系学問に、
自身の修正点なり対自身での論点なりが分かってない、実際、具体化精度確保欠いたまままとめ上げてしまう救済観や歴史観が、あるいは、単にまとめ上げを拒否するだけの態度が未だ影響力持てる文系学問を、
追い着かせるべく、個別性検討に必要な同種の他との共通要素捨象の能力も養成対象にすれば良いだけ。)


知性倫理美意識は対象を受容に値する(帰属関係に修正余地がない)状態へと持ってく働きであり、
有限の与件性とより確からしいものが取って代わる運動性のみから成ってない現象の許容はその働きの形骸化である。
また、それらのみから成ってる実存(冒頭の実存)は、理想(真善美)を最小に割り引く現実である(その人の対真善美の上限化を意味する)。

以上の理解と整合的な対象評価だけを、もちろん自己から見た遠近や権威の有無によらず持ちましょう。



例えば、感情もそれ自体や特定のそれを問題とするのではなく、その実存の反映として覚えたり表したりという内実でない事態を、修正要する現象と見なしましょう。

同様に、対真善美の有り様を、ひいては、人生や世界の有り様を肯定否定する際の根拠が、
幸不幸や成功失敗といった何らかの表層形ではなく、受容に値する状態であるないの差異となるよう

(有限性の代替不可能化以外のものを持ち出して正当化しない、してるものを真に受けないよう、
文系的局面で言うと、同種の他との共通要素捨象を用いた抽象化具体化が十分かどうかと関係なく有り様を肯定否定する言動に、
例えば、局面に合わせた加工の過不足の有無と関係なく嘘や演出を肯定否定する知性や倫理や美意識に価値を見出す事のないよう)、

哲学の働きを、有限性の代替不可能化(限定理由の確からしさ最大化による、
限定前後での確からしさ保存)でない内容の問題や解決への疑似問題扱いや疑似解決扱いとして機能させる必要があると考えます。


そう機能させる為にも以下の理解を押さえましょう。

哲学の働きが、日常性を(現象学のような実態主義的にか、形式論理学のような不当合理的にか)剥いだ足場、
あるいは、露呈させる力と隠蔽する力の拮抗から成る足場への立脚誘導に矮小化されてる

(同種の他との共通要素捨象用いた抽象化具体化に関する十分不十分の判断、ひいては、先の運動性が機能してない段階で、
例えば、主語の切り出しや主語の述語化を、あるいは、概念の内容や文系事象の理解を、肯定否定する水準に留まる)せいで、


人生や世界は言わば、場の個別性を尊重しない優劣付け保存(十分な個別性検証を経てない欲望、個別性を考慮しない望ましさ等が場を越境する)方向や、
場の個別性を尊重しない優劣付け無化(内実の確からしさ差異まで捨象するせいで悪貨が良貨を駆逐する的)方向に引っ張る事のできる、

具体化精度確保(場によって具体化されるものへの改善フィードバックの上限化)と無関係に構築可能な対象へと矮小化された有り様を、
理論的に保障されてしまってる(不当合理批判にかこつけた実態主義正当化やその逆も、受容に値するしないと関係なく都合の悪さ回避で極を飛び移れるよう両極保有するのも、

表層形振り子であって、話を表層次元に限定する矮小化であり、確からしい内実の反映でありさえすれば表層形に拘らない可能性開放への妨害に他ならない)。




注、

例えば、存在性の演出的発現(したがって、加工の過不足程度を掴まえられないと評価が的外れになる)における演出フィルターとしても、冒頭の実存が上限という扱いになる
(加工前後での確からしさ保存の、対有限性に上の運動性を阻害なく取り込んだ結果としての、有限性形態への代替不可能化による達成問題と捉え直せる)ので、

内面局面、資質環境といった内在場外在場の個別性に対する疑似化除去具合が評価の対象となり、
対象Aの個別性はこれだろうという仮説が、同種の他のBにも言えてしまう場合の仮説修正に対する開放程度
(同種の他との共通要素の捨象能力の働き具合も当然込み)もそこには含まれてくるわけです。


逆に言うと、その実存(検証精度の低い検証結果のフィードバックが仮説の改悪である事から分かるように、
この実存の対外在は自身の個別性についての仮説の改善を最大化するもの)かどうかの区別がついてない人の為す評価は、

チキンレースで即離脱的なぬるさとギリギリを攻める的ぬるくなさの無区別からくる悪貨が良貨を駆逐する環境の構築に、
理想を犠牲にする程度に関して加担してる形であって、真に受けたら自身も加担してしまいますし、
対真善美の他の二つ(個別性が根拠にならない理系的局面除く)についても同様です。


現象は内在性質と外在性質の統合体であり、真善美そのものを内在性質ポジション(抽象物)とした時の外在性質ポジション(具体化条件)に、個々人の内面世界もあれば、異なる時空もあるので、

対真善美も、対無限者(より確からしいものが取って代わる運動性を無限性とし、有限性形態をその運動性が阻害なく働いた帰結とする、
例えば、本文で言う推移構造含め、帰属関係を修正する働きがその意味で上限化されてる下での経済活動なら肯定するという、阻害除去の問題として捉え直せる)と同様、

抽象化具体化の不十分さが解消されてる(限定前後で確からしさが保存されてる)現象は受容に値するとしつつ、そこの不十分さを縮減する問題に他ならない


(理解は対象に関する抽象具体関係構造を確立できた感覚えた像に過ぎない上に、
実力も、持ってる同構造が現実の複雑さに通用してる確からしさ程度と見なせるにもかかわらず、

アンフェアによって通用してる事にしてしまう言わば改ざん研究者的な生はじめ、
仮説への改善フィードバックの上限化に必要不可欠な具体化精度確保に対する志向を欠くなど、

より確からしいものが取って代わる運動性以外に頼ってる形となってる時点で、
その人の都合も、自身が存在するのと引き換えと言えるだけの通用性を持つ状態、存在尊重の下で受容される状態にまで持っていけない為、

知性や倫理や美意識を持ち出したところでそれらは、実存に帰されるものを存在に擦り付けてる帰属操作の分だけご都合主義な地平用にチューニングさせられ、
帰属修正という関係性確からしくする働きを、存在するのと引き換えでもないという意味で大した理由なく、したがって、その限定の前後で確からしさが保存される事もなく割り引かれてしまってる)、

こう解しましょう。

ご支援の程よろしくお願い致します。