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3151文字、無益に思われる事さえある哲学に、今後担ってもらうべき役回りについて(リベラルをどう位置付けるかにも触れて)

2024-1-002

例えば、いじめる人といじめられる人、といった表層形に着目する限り、自他への負わせる負わせない有り様に修正余地なさを持たせる、代替不可能な内外事情にしか応じない実存方針を、
自他に求める(この実存方針の下での表層形開放が、求めるという抽象物にも言える為、

表面上求めてない有り様もこの方針が具体化条件である場合は肯定される)という本筋は埋没し、
奪う奪われる関係(帰属操作)が表面上見えにくいだけで解決状態扱いされる秩序
(林檎は数えられるけど蜜柑はできない的内容に留まってる数えるに関する原理のイメージが、帰属修正の原理について言えてしまう事態)が続いてしまいます。


同様に、幸福な人と不幸な人、といった表層形に着目する限り、置かれてる場に通用させ続けるという存在課題を含む、優勢劣勢有り様(存在しやすいしにくいという場との相性)を、
場の疑似化した個別性に整合させられる疑似秩序(および、実態というだけで根拠扱いする実態主義)から解放する、

という本筋は埋没し、ドーピングによる金メダル(場で問われるべき差異と実際に取り出されてる差異とが、
一致してないポジション割り振り)のような茶番を有り難がる状況が続いてしまいます。


こうした表層次元縛りの原因は、直接的には問題状態についての抽象度の低さ
(問題状態についてのこれは、呼吸からして問題解決である生の観点では、 井の中の蛙的状態の緩和に伴う再位置づけの機会を生が逸してる事を、

表現の観点では、安易さを取り除き切れず、立ち上がる存在性、もちろん、物語における英雄性と宿命性をぶつける型なり、
人間に対し諦めつつ膝はつかない的態度なりを演出フィルタ-に立ち上げられてきたそれに説得力を持たせられない事態への繋がりやすさを、意味してるように思われ、

また、限定されてない状態を目一杯準備してから確からしい限定条件をもって切り出す処理の機能不全の原因には、
仮説の改善を、つまりは、抽象次元の通用領域最大化を損なうものである以上、具体化精度への鈍感さも含まれる)でしょうから、


この低さが、理想を疑似としてしか持てない(理想が割り引かれるのを望まないという問題意識以前に、既に割り引かれてる)事態と同等である点から見て、
理想現実関係(プラトン時点で提示されてるこれ)が文系領域では、抽象化具体化の不十分さ解消の対象として捉え直されていない点に責任があるだろう人達、

つまり、理系領域で事実上達成したガリレオ(数学と自然の架橋)以降に哲学者の肩書を掲げた全ての人に、
表層次元縛り故に保存されてる解決可能な問題状態を世界が持ってる件についての責任も帰属してると言えるはずです。



なので、無益と思われる事も珍しくない哲学に、抽象化具体化の不十分さ解消が知性倫理美意識の働きに先立ってるかどうか検討し、
取り出した修正余地に対する否定的位置づけ反応を、抽象化具体化不十分さ解消をもって具体化する(修正像を示したり、修正余地として扱わせたりする)役回りを担わせ、
先立ってない弊害を目にした際には、他の役回り像への避難を許す事なく哲学の不全とする哲学像に差し替えた上での、社会への再組み込みを図りましょう。


例えば、場の本質(代替利かない要素)に合わせる具体化精度確保には、
個別性が根拠にならない局面での同種の他との差異要素捨象の引き受けも、根拠になる局面での同種の他との共通要素捨象の引き受けも含まれるので、

近代性(ガリレオデカルトにおける分離の成功体験によって強化された、前者捨象の領域侵犯と後者捨象の不在)の最たるものである、
不当合理への批判にかこつけて過剰特殊を押し通す言動、あるいは、過剰特殊への批判にかこつけて不当合理を押し通す言動を、
文系の知的権威が発信しているのを目にしたなら、哲学の不全を覚えましょう。

(実際には、10秒前や5秒前や1秒前の自分についてなどにおける同一性と変化性を、
抽象化具体化の交互反復の産物として見た場合の、前者捨象を用いた抽象化具体化に限定した論理観や理性観を、
加えて、林檎も蜜柑もまだ見ぬものも数えられる的具体形パターン網羅に対する有限化に修正余地なさを持たせているいないという論点の埋没を、哲学者が保障し続けてる形ですし、

冒頭の実存方針をもってより確からしいものが取って代わる運動性に対峙する事で、有限性故にこの運動性に対して生じてしまう阻害に、
修正余地なさという確からしさを持たせる手続きが不在な分、仮説改善に閉じてる仮説形成能力で構成された知性と、
記憶障害故の強制的な情報遮断によって時間や距離や状況の把握に、ひいては、生遂行に実質を欠いてる主観構成との、近さを踏まえてない主観像を、哲学者が保障し続けてる形です。)


例えば、場の本質に合わせる具体化精度確保は、場を荒らしてないという表層形になる事も、場を荒らしてるという表層形になる事もあるわけなので、
場に合わせてるという表層形と場に合わせてないという表層形との間の差異に対する軽視的態度を併せ持ってるはずですから、

絶対主義(例えば、局面次第でしかないものの有り様を局面無視で定める傾向)はもちろん、
文系空間(個別性が根拠になる領域)での相対主義(個別性が同種の他との共通要素捨象に十分さらされているいないという、内実に関する修正余地の有無を無視した多様性推奨)、

つまりは、場に合わさないという絶対主義性に反動反発(表層形反転)しただけのもの(それぞれの事情を修正余地持つもの込みでくんでる形)に対する、
取り合うに値するかのような扱いを目にしたなら、哲学の不全を覚えましょう。

(実際には、生への割り引きの拒否をはじめとする、修正余地のないものまで拒絶する、したがって、解決不能なものまで解決対象にしてる疑似問題に陥ってると共に、
検証機会から逃げ回ってる仮説が持つ確からしさに留まる絶対主義的内容を、哲学者が保障し続けてる形ですし、

単なる資格開放保障をはじめとする、修正余地の有無を区別しない、したがって、悪貨が良貨を駆逐したあげくの意義崩壊展開まであるのに済ませてる疑似解決の押し付けであると共に、
皆に真似されると得たものが紙切れになる銀行強盗のごとく、都合の良さへの寄生が確からしさの上限となる相対主義的内容を、哲学者が保障し続けてる形です。)



ある事実に対して、異なる文脈を持った人の間でその評価が異なる、あるいは、
同一人物でも持ってる文脈が変化したのに合わせて評価が変わる、こうした差異自体や変化自体を肯定否定の対象にする人は、

この場合の抽象物である事実と、具体化条件である文脈が、抽象化具体化の不十分さ解消状態としてあるなら受容に値するし、
ないなら修正余地を持つ、という観点を採用してる立場からすると、論点を埋没させてるわけですが、

この観点を機能させられない実力状態であるのなら、自己判断されるよりはマニュアル対応してくれた方が増しなので、
個々人が何に対する実力向上(対象に関して持ってる抽象具体関係構造の像を実力と解せば、
具体形パターンの量と質を踏まえた抽象度不足解消)に注力するかはその人の内在事情外在事情による、という点を踏まえると、

結局のところ、実力有り様に修正余地なさを持たせる、代替不可能な内外事情にしか応じない実存方針を、
求める以上の話ではないと言えて(具体化精度の確保や問題意識化を求めてる形である為、上の観点が機能する方向に寄せてはいる)、

これは当然、マニュアル的道徳(リベラルは絶対主義系マニュアルから相対主義系マニュアルに反動反発しただけの疑似解決で、
先に見た相対主義の弊害を問題状態として捉えてない抽象度不足の証拠)という次善の策にも言えると考えます。

ご支援の程よろしくお願い致します。