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4641字、多様性が修正余地のある個別性かどうかを無視する弊害に鈍感である場合に、および、カントニーチェへの権威扱いを目にした際に思うべき事について

2023-12-003

個別性に修正余地がないかどうかと関係なく多様性の受容を強いるのは、有限性
(特に、真善美そのものへの届かなさ)を安易に根拠にする相対主義的態度であって、

有限性を安易に受容するよう強いてる(修正余地のある有限性をないかのように扱わせる)のと同じですし、
検証を拒んでる仮説を受容するよう強いてる(疑似性の許容は、言わば、ドーピングしてるしてないの差異が無視されてる的状況をつくる以上、帰属操作願望に付け込まれる隙なので、

対象についての仮説でしかない個別性の仮説改善を放棄し、疑似化してる個別性を肯定する理論も、奪う奪われる関係に留まるのを強いてるも同然なのに、
負わせるに値する状態にまで持っていってないものを負わされる事への抵抗としての糾弾を矮小化してまで、その理論を保持してる)のと同じです。



つまり、それは、限定を避ける試みが量的にしか達成されない(通用してない領域を潰す働きが表層にしか働いてない、
したがって、その働きにとっては乗り越え対象となる)相対主義的態度の産物なので、

より確からしいものが取って代わる運動性に対して(当然、その時点での上限としての確からしさに対しても、
ひいては、自他が持ってる理解や実力の向上余地把握に関わる判断に対しても)
阻害的な帰属修正に留まってる(補填的に阻害を無くす手続きについては後述)知性倫理美意識の現れと言えます。

(個々の有限者に帰属してる有限性についての仮説の、確からしさを上限化させる事なく、
その仮説を真善美からの乖離、有限者にとっての前提であるこれに紐づけてるという安易さが、


言い換えると、感情の種類に関係なく、感情を根拠にした時点で踏まえた事になる、
存在する以上こうならざるを得ないという存在立脚ロジックの形骸化、ひいては、存在尊重の形骸化、

自身を代替不可能な内外事情にしか応じない主体像をもって具体化し続けてきた結果を、主体の修正余地ない個別性と見なし、
その主体像を自他に要求するがそれ以上は要求しない開放性をもって防げるだろうそれが、
知性倫理美意識の働きに、確からしさに対するいらぬ届かなさを齎してる形でしょう。)



例えば、感謝や謝罪は帰属修正反応であり、信賞必罰も空間に帰属修正を持たせてると言えますが、
帰属修正が機能してるしてない感と、実際に修正余地が残っているいないとはズレ得る為、

泣き寝入りの発生に自身がさせられてるケースですら気づいてない事態も起き得、また、取りこぼされてる修正余地を正確に掴めるとも限らないので、
修正余地の把握に対するその社会の持つ精度の低さが、論点のズレた右派左派対立構図の類を許してきたとも言えるはずです。


問題はない問題はあるといった仮説も、仮説改善を上限化できてない段階でのものを真に受けると、
いらぬ振り回されを負う(言わば、過剰反応としての見て見ぬ振りや大騒ぎに付き合わされる)形になるので、
より確からしいものが取って代わる運動性への阻害の有無を自他に見出すのは、

もっと言うと、その運動性を有限性形態の有り様に対し持ち込んだ結果(代替不可能な内外事情にしか応じない主体像)をもって、その運動性と対峙してるかどうかを自他に見るのは、
その種の仮説が上のような構図へと矮小化されるの防ぐ本筋であると解せます。


ところで、障害故に記憶が失われたとして、その場合、記憶の失われた時間帯で生じた出来事は生じてないものとして扱われる事になる為、
その人の周りには信賞必罰的なもの(帰属修正)の機能してない空間が強制的に立ち上がるわけですが、

何をどの程度気にするかしないかについて、個々人の差異が大きい程、その空間に近い状況となるのに、
障害による修正余地なさとは異なり、大した理由なくそこの差異を広げる事になる


(場の疑似でない個別性に即した割り振りへの支持の意味でのフェアを、越えない解決に留まるという、
場の個別性への尊重を目先き的でないとした時の、対内在場も対外在場も目先き的と言える、
個々が疑似化してるしてないの差異、および、個々についての場の性質と整合的な位置付けを、あえて気にしない倫理的態度の反映である)

単なる多様性推奨(が持つ内実の確からしさへの鈍感さ)は、何らかの社会性が生じた際に、
引き受けに値しないものを負わされてるという事態がその社会性に持ち込まれる原因の一つ

(もちろん、個々の連関におけるこの事態は、内面世界に置かれてるものにも、
対象に関して持ってる抽象具体関係構造の像である理解や実力における具体形パターンにも言えるはず)として扱われるべきでしょう。



注1

狭義の近代の始点終点であるカントニーチェへの権威扱いを目にしたら、あるいは、外在場の個別性を軽視してるそのリベラル性リバタリアン性への賛同や擁護の姿勢を目にしたなら、
真善美との距離ゼロが可能かのような前提に対する肯定否定枠組みに留まって、

冒頭の有限者に纏わる3者間関係についての帰属修正、という内容を知性倫理美意識の働きに持たせられないでいる、
との意味で、パラダイムによるいらぬ割り引きを知性倫理美意識が負ってる事例として捉えましょう

(個々の内実確からしさを無視してバラエティ確保に走る為、可能性の獲得喪失を量的にしか捉えてない証拠である相対主義的態度においては、
不当合理が言えるリベラル性と過剰特殊が言えるリバタリアン性を両極として持ち、都合に合わせて他方に飛び移る自己保存戦略、自己を規定しようとしてくる力に対する回避戦略も可能であるけれど、

当然その場合、不当合理と過剰特殊の二択に地平が縛られる、というか、相対主義的態度自体がそもそも、
美味しい林檎も不味い林檎も林檎は林檎だ的処理である、同種の他との差異要素捨象を、

局面に要請されているいないと関係なく展開した不当合理の産物の他者への強要という内容と、
個別性が根拠となる事象についての思考が形骸化し、思考量を誇れるだけとなる原因の、同種の他との共通要素捨象が要請されてる局面でその要請が無視されてる事態も含まれる、
肥大化したままの個別性である過剰特殊の肯定強要という結果から成ってる)。


また、カントにもニーチェにも、認識対象が主体の認識場に合わせた加工を帯びてしまう事は認めてる立場でありつつ、
主体が外在場に合わせてる形の現象に対しては許容しないという、同じ構造のものを認めたり認めなかったりする抽象度不足が言えます。
なので、外在場の個別性の疑似化具合(外在場に置かれたものの具体化精度)を論点にできない以上、

提唱する理論や提示する理念に、各場での優勢劣勢の修正余地を無くす側面、仮説に過ぎない個別性に仮説改善の上限化(検証精度の上限化が必要)機会を持たせる側面を内包させられない
(言い換えると、存在現象を外在性質と内在性質の統合として見た時の両性質の疑似化を、ひいては、存在現象の確からしさ低減を防げない)彼らの権威化に、


疑問を持たない人(既存の平等概念と自由概念のそれぞれに、主として欠けてる要素と思われる上の2側面の内包不能を、
二重の嘘発生と見れば、嘘についてのカントの有名な例示は、理論破綻を分かりやすく示してると言えるだろうし、
生が過大要求という内容を持ってしまう原因と見れば、ニーチェの生に対する言及は、有限世界で他者に真似された途端、共有地の悲劇構造を呼び込む自滅型に限定されてると言えるだろうに、

対存在現象に加え、こうした低通用性の隠蔽状態にまんまと引っかかってる形と言える人)には、
抽象化具体化の不十分さを解消する前に解決と見なす安易さ(文系権威の場合、文系の歴史が確からしさの上限化を紡ぐ内容になってない原因、

ドーピング選手の勝利が明らかであろうとその参加を死守する的な選抜の形骸化、
ひいては、世界の茶番化という、帰属修正が先立ってない資格開放保障の理念化の弊害が隠蔽されてるも同然である点だけ見てもそう言える、
帰属修正に厳格でない文系空間において、時の洗礼が展開される原因となるこれ)を見ましょう。


注2

テキスト解釈には、対聖書で神の意図を見出す流れを汲んでる(テキスト単体では確定できない意図の把握を目指し、テキスト制作者に固有の拘りをも探る系込み)と言えるような側面もあれば、
無意識に反映させてしまってるものを何らかの観点(既に知られた種々の理論に加え、

不当合理と過剰特殊の二択地平状態についての指摘は、特に知的言説に対して重要に思われる)をもって見出す試みと言えるような側面もあれば、
制作者の対テキストでの安易でなさがテキストに結果的に持たせてる構造を見出す試みと言えるような側面もあるとして、

これらの割合を解釈者が代替不可能な内外事情にしか応じない実存の下に決める方針をもって、
解釈者の事情と関係なく特定の割合を強いる絶対主義(明晰曖昧スペクトラム上の点など、硬軟を局面の疑似でない個別性と関係なく決めようとする態度込み)も、
引き受けるに値しない事情の混入具合無視で解釈者の事情に合わさせる相対主義も、安易扱いと共に同時否定しましょう。


また、意図も無意識も原理部分(内在性質)であって、内外性質統合としての現象の把握を実態把握とした時の、
統合要素の疑似化具合の把握、対象現象と確からしいものとして付き合うかどうかの精度を決めてくるそれも、

上の実存であるかないかの区別がつく(通念的善悪との整合具合によらず、上の実存を損なってない振る舞いは肯定し、損なってる振る舞いは否定してる状態、
言い換えると、奪う奪われる関係が肯定側に残存しないよう帰属修正を善悪枠組みに先立たせてる状態、
存在尊重をはじめ修正余地が論点でなく帰属修正が機能してない倫理を形骸扱いしてる状態に近いほど、そこの分別精度も高いはず)なら期待ができる

(この意味で、個別性への内実不問故に、自身を上の実存をもって具体化し続けてきた結果かどうかなどの、個別性の修正余地なさ具合について言及できない上の二択地平には期待ができないし、
絶対主義と相対主義との間の対立関係に限らず、場に合わさない合わせるの二択な発想もその地平に含まれる為、単なる制作意図軽視にも期待ができない)と考えましょう。


注3

対時間での客観性の欠如は、距離感覚や状況把握の客観性にも響くわけですが、
本人に連続性についての疑問が生じてないなら、同種の他との差異要素捨象による点から線への次元飛躍は生じていつつも、強制的な情報はく奪によって連続性に実質が欠けてる事態と想像されます。

このケースでの主観は、生に資する方向性の上限化を強制的に下げられてる形と言えて、
いずれにせよ、客観と主観を切り離すなどの、その上限化を論点にできてない主観についての理論は形骸でないかと疑います。

また、このケースを量が不足してるパターンとして見た時の、量は足りてるけれど質がないパターンとして、倫理的観点の一切を外す事は可能との発想があると考えます。
実際には、資格開放保障という理念の一種でしょうから、この発想も倫理的立場に過ぎないのであって、

その理念は、個々が疑似化してるしてないについての差異の無視を支持してる形である上に、
キリスト教や共産主義の事例から見て、秩序を担った途端に個人の精神はじめ、諸々を縛る事になると推測されますから、
この発想も生に資するどころか、内外共に生を疑似問題から解放するのとは逆を向いてると見るべきでしょう。

ご支援の程よろしくお願い致します。