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自由に関する誤解(リベラルやリバタリアンな有り様に自由を見るなど)が見られたら、修正や新規構築の能力に疑問を持つに十分でないか(省略版の付記あり)

2022-6-003

自由に関する誤解(リベラルやリバタリアンな有り様に自由を見るなど)は、
その人が修正や新規構築の能力が高くないと疑えるだけの証拠になるように思われます。

近代パラダイムは理系的捨象(同種の他との差異要素の捨象)の領域侵犯と文系的捨象(同種の他との共通要素の捨象)の埋没という捨象傾向故に、
内実を確からしくする働きが不在であり、
前者的不在がリベラル(特に普遍性の概念)、後者的不在がリバタリアンであって、同種の他との共通要素の捨象に不断にさらされてはいないもの
(主観なり感情なり身体性なり)を始点や根拠にする事に疑問を持たない人(近代人)に思われます。

つまり、リベラルやリバタリアンな有り様を自由と言い張るのは、
自己に帰属してるものが奪われてる状態をプラスの歪みとした時のマイナスの歪み(歪みが大して減じてないままの符号反転)と言える、
自己に帰属してないものを帰属してるように振る舞ってる状態を通そうとしてるのに等しいし、

内面世界なり社会なりで通っているならその場は、本質的ではないものを本質的であるかのように扱ってしまう理解力が修正されない場である、と考えるわけです。


例えば、包摂に対する肯定否定(全体主義批判によるリバタリアン擁護など)がこれまでのようなものしかなかったのは、

社会も場であるように内面世界も場であり、場での整合はその場その場の疑似でない固有性の保障が内容である時肯定される、
あるいは、管理者的立場もプレイヤー的立場も、場の上に立ち上がるものがその場の疑似でない固有性を損なわないように組み上がるよう、それぞれの立場から協力する関係であり、その観点から他方に要求できる、

こうした理解の不在故であって、この内容を中世(教会)と近代(デカルトによる分離)の関係は正に持ってる上、

そうした整合や要求が、修正や新規構築の能力の実体である
(より確からしいものに寄せるのでないその能力は形骸であるけれど、その種の整合や要求は偽装でない引き受けざるを得なさに帰属させる働きなので)と言えるとすると、

対内実に関して今なお支配的な近代パラダイムの枠内にいる限り、上で言う疑いは避けられないと思います。


ここで、場の疑似でない固有性と着目無視との合致状態をフェアと規定するとして、
フェアを越えない方針は、具体化精度最大化の試みでもある為、改悪フィードバック
(精度の低い実験の結果を仮説に反映させる的事態)を回避する一環とも見なせます。

つまり、フェアを越えない有り様に対して不自由を覚える(アンフェアや改悪フィードバックに開かれてる状態に対して自由を覚える)のは、
抽象次元(抽象としての自分なり世界なり)の通用領域最大化にいらぬ制限が生じてる状態に対し自由を覚えるのに等しいと考えます。

近代パラダイムの枠内に留まり、フィードバックの内実を確からしくする働きを持たない状態で自由や平等を捉えるのを止め、上の方針をそれらの内容とするなど、
自身の生にその方針を導入し(生の内実を選ぶに値する通用の行き渡ってる状態に寄せるべく、先のいらぬ制限を排し)、

近代人(例えば、上の方針の言い換えである、代替不可能な内外事情にしか応じない主体像と獲得との整合を、要求しないまま、情報や能力や可能性の獲得を促す既存教育者、
あるいは、内実の確からしさ差異を無視する受験ルールへの特化を、フェアの帰結かどうかと関係なく促す既存教育者)との付き合いを、引きずられないよう必要最低限に抑えましょう。


(自己帰属の想定範囲とそこへの割り引かれとの関係が、抽象化具体化の精度問題になってないのは、
理想を割り引いたものとしての現実というプラトン提示像への解答として、何ら限定されてない状態の準備と引き受けざるを得ない条件の割り出し、
これらの最大限化を、文系に持ち込まなかったプラトン以降、特に理系での展開を横目で見てる近代以降の、哲学者の責任が重いと考えます。)


ちなみに、余裕がない状態で量や成立自体に走るのは、余裕の有無という局面事情と整合的なので上で言うフェアに該当します。
もちろん、上の方針では、余裕があるとなったら長時間注力や新陳代謝起きな過ぎから脱する事になるので、
その推奨は、人事評価(選挙まで拡大解釈)やイノベーションや少子化の問題も射程に入っていると期待してます。

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