個人は社会との間にいらぬ闘争を強いられていて、近代パラダイムに無力であり続けてきた哲学者に、その責任の過半が帰せられるのでないか、という話
2022-10-006
局面との整合の無視の弊害には、それらが要請される局面もあるに過ぎない、表層形のみでの判断や疑似化の、局面とは関係ない全面展開全面許容と言える理解
(自身のいらぬ飛躍の有る対象位置づけを修正形に持っていけない、この意味で形骸な知性)に留まる事態まであると考えますが、
場の上に置かれてるもの(形式込み)の状態が、
その場の疑似でない固有性(その場がその場である限り持たざるを得ない要素)と整合的(この意味で場が尊重されてる)かどうかを問題にし、
整合させる方向(具体化精度最大化)への修正も期待できる人であれば、
そうした弊害(加えて、局面の性質把握の精度不問の弊害)も抑えられるだろうし、
社会から受ける整合についても、場の疑似でない固有性に合わせる形かどうかでしか肯定否定しないはずです。
つまり、個人(内面世界における割り振り原理)と社会の関係について、負わせるに値しないもの(いらぬ飛躍の有るもの)同士の負わせ合い闘争の外に出たいなら、
個人と社会の関係を捉えたり、その種の関係に関する言説(例えば、全体主義への言及)に接するのに先立って、
場で割り振り原理になってるものの疑似性を見出す為に必要な、同種の他との共通要素の捨象に十分さらされてるかどうかを判断できる能力
(何を問題発生と捉え、それにどう対応すべきと判断するかに関する固有性、
個人で言えば、無自覚なものも含めた思考や行動の、もっと言うと、意図の内実と言えるだろうそれが、
内在事情外在事情の代替不可能な要素にのみ応じてきた場合の固有性とどれだけ乖離が、この意味でいらぬ飛躍があるかを捉える能力)
の獲得が必要であるわけです。
しかし、近代以降の文系(個別性への帰属の確からしさが根拠になる領域)は、
同種の他との差異要素捨象の領域侵犯と、同種の他との共通要素捨象の埋没から成るパラダイム
(局面が確からしさ確保として要請する捨象処理と採用される捨象処理との不一致)に縛られていて、
哲学者もそこからの解放を果たしてない(冒頭から見て、除去できれば表層形断罪や疑似要素受容強いの泣き寝入りを終わらせる事も可能な、
それらを知性の機能不全と位置付ける文系空間の生成も可能な、上のパラダイムが持ってるいらぬ飛躍に対し、無力であり続けてる)ので、
個人は社会との間にいらぬ闘争を強いられてる(ハイデガー問題を上で言う負わせ合い闘争からの脱却に繋げられたとは言えない、
という逸失を踏まえると、戦後の哲学者の責任はさらに大きい)とも言えるように思います。
文系空間の有り様に関係なく先の能力を獲得し、文系場の上に立ち上がってるものが持ついらぬ飛躍にまで応じてしまう生を、避ける事のできる個人を増やしましょう。
倫理も知性と同様に、(対象を、もしくは、対象への反応を)帰属の修正余地のない状態(受容条件が満たされてる状態)へと持ってく働き
(言い換えれば、いらぬ飛躍の含有程度を基準とする価値付け、という整合作用を付随させるべきもの)として捉え直し、
先の能力を用いて精度最大化させた抽象化や具体化条件割り出しから成る内容へと、理想と現実の関係(限定を受ける前と後の関係)を持っていっている倫理といない倫理の区別ができ、
関係から安易さ(例えば、先の意図の話における乖離)を取り除けてない後者に形骸性を見出せる個人を増やしましょう。