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自由に対する誤解の原因(選ぶに値しない像が支配的である原因)について、最後、平等社会の達成の仕方にも触れて(他、ポストモダン批判の側面あり)

2022-4-001

場の疑似でない固有性に即した割り振りへの支持をフェアと捉えるとして、
内在場に対しては管理者立場、外在場に対してはプレーヤー立場からフェアを求める事
(同じ場における両立場は目的が同じ協力関係であり、認識は前者立場、実存は後者立場)と、

自身を代替不可能な内在事情外在事情にしか応じない主体像に寄せる(何ができて何ができないかという有限性形態を代替不可能性に帰属させる、つまり、引き受けざるを得なさに紐付ける)事とは、
基本的に同じ内容であると考えます。


外在場に対して、疑似化してるその固有性に合わせてる(空気を読むの実際の使われ方であり、場に表層的要素込みで合わせてる)人から見れば、
代替不可能な外在事情にしか応じない(場に表層的要素を可能なだけ削ぎ落した上で合わせてる)人は、場を荒らしてるとか場から乖離してるように見えるわけで、

この種の自由(損失や喪失もフェアの帰結、つまり、代替不可能な有限性に帰属してる帰結であるなら引き受ける、という方向性が含まれてる)と、
フェアの帰結ではないけれど表面的には同様に見える自由(同方向性は含まれてない為、
外在の性質と無縁な具体形がない以上、疑似化程度という内実を無視する理解力で可能になる、望む表層形導く具体化条件への固執を、外界に押し付けてるだけ)とを区別しない場合、

内実のいらぬ飛躍の含有程度差異の混同状況を、ひいては、形骸物への実質持ち偽装によって奪える搾取可能状況を、作ってると見なせます。


つまり、価値体系や線引きはじめ、場の上に立ち上がってるものとの量的距離を、操作できる(内実については何も言ってない)という意味での自由は、
奪う現象(不自由状態込みな奪われ事態)と不可分なので、他者と奪い合うものとしての自由、
および、都合の押し付け合いの強弱から成る秩序が、前提にあると推測されます。

そして、人間形式の特徴である次元設定自在性(内在物を局面に合わせて具体化する能力としての理性込み)を、
より精度高く場に合わせる方向に注ぎ込むか、場の固有性に対する疑似化の自在性、それも都合の悪さからの逃走の常態化(余裕があってなお逃げる過保護)へと注ぎ込むか、
この両者の違いを区別しない人間性像は、先の混同状況と重なってるように思われます。


その場合、通用領域判定の徹底が表層次元に留まったデカルトをベースにしてる世界(近代以降)における、
つまり、通用領域の広狭と確からしさとの相関を、採用観点には、さらに遡るなら、
主体の固有性(有限性形態)には適用しないパラダイムにおける自由は、フェアの帰結ではない自由であり、

理想と現実のズレ(割り引かれの不可避性)を指摘しながら、抽象化具体化への上の相関の厳格適用
(それによって可能になる、抽象化や具体化条件割り出しの精度最大化)をその解決方向としなかったという意味での、
プラトンの指摘と解決方向との断絶が、文系域では今なお乗り越えられてない
(理系はガリレオの時点で架橋されてる)件の当時的現れとして、デカルトの表層次元性もあった
(デカルトやハイデガーに対する乗り越え試みの疑似問題化の歴史もその現れ、
逆に言うと、既存の対デカルトや対ハイデガーを個々具体とする抽象次元に、疑似問題化を引き起こす原理としてのプラトンの断絶がある)のでしょうから、


より通用領域の広い方が選ぶに値し(観点という上の相関にとっての具体化条件次第で通用してるしてないの判定は変わるものの、肯定反応や否定反応の根拠)、
有限の与件性(内外境界発生の不可避性を意味する為、他者含む外界の存在が引き受けられてる理由であり、
それは肯定否定の生じる根拠でもある、より確からしいものが取って代わる運動性としての無限性にとっての、自身たるべくフィードバックする対象である為、要請されてると推測)の下で、

言い換えると、限定を受ける前と後の関係が前提である下で、通用の行き渡ってる状態を確保する(世界においてこれ以外は疑似問題)のが、
文系的局面においては、同種の他との共通要素の捨象を用いた抽象化具体化の不足の縮減
(内外関係の論点も限定の過不足の縮減という、有限性に対する代替不可能化、
倫理的には特に、不当な扱いを受ける現象の受け手を自己絡み限定から、無生物や概念等にまで拡大してく抽象化の不足の縮減)なので、

フェアの帰結でない自由(観点の選抜がフェアでなくても良い世界における自由)は、選ぶに値しない類の自由であると言えるはずです。



また、展開を抽象化具体化の交互反復(例えば、線と点の関係)と見れば、論理や歴史(当然、個人の次元も、種の次元も込み)の論点が抽象化具体化の精度最大化でなく、

その局面が何の差異を確からしさ差としてるかについて鈍感化し、同種の他との差異要素捨象ベースの論理(理系的論理)だけを論理と見る(論理に対して肯定的であれ否定的であれ)、

表面上見られる変化不変化(安定不安定、確定不確定、硬軟)に肯定否定の根拠を見る
(いらぬ飛躍のない歴史展開を思い描けない人が、国なり企業なりの資源配分を担うのと、先の主体像と整合的でない獲得をもって個人が人生を紡ぐのは同じ構造)、

こうした選ぶに値しないものも内包してる(搾取的である)論理観や歴史観が支配的である原因も、プラトンの断絶にある事になるので、
文系の知的世界は、古代から見て内実的には確からしいものが取って代わってきたわけではなく、表層が洗練されてきただけと捉えましょう。



表層次元への過大評価を内実の確からしさ確保で抑える事により、表層次元に引きずられてる歴史
(プラトンの断絶がある種のパラダイムになってる)から、文系の知的世界を解放しましょう。
それには各自における既存教育とのある種の決別が必須と考えます。

より確からしいものが取って代わる運動性によって有限性形態を規定させてるとも言える先の主体像は、
その運動性を阻害しない、したがって、その主体にとっての上限を意味する受け皿である
(その運動性を無限性と見れば、その主体像に寄せる事が無限性と有限性の関係正常化の実質である)と推測されるのに、

先の主体像から乖離してでも何らかを獲得するよう促してる一方で、同種の他との共通要素の捨象処理の能力は養成しない既存教育は、先の主体像を埋没させてる形であるからです。


同種の他との共通要素の捨象を用いた抽象化具体化の不足に気付けないなら、
文系的局面で通用の行き渡ってる状態を導く事はできないわけで、選ぶに値する生を、既存教育は奪いにきてるようなものであり、

また、自身を個々具体に含めた抽象次元に遡れない傾向が強くても知的上層になれるせいで、
自分が奪うのは許しながら奪われ事例(弱者ポジションが奪う側のケース込み)を非難する
(搾取可能状況に誘導してる形の排他性批判もこの一種)等、冤罪的側面を削ぎ落し切れてない対象否定が知的権威を帯びてしまうなど、
都合の押し付け合い秩序(場の本質からの乖離という雑さに雑さで返す世界)で生きる事を、既存教育は強いてるようなものです。


実際、場を荒らさない内容の空気を読むに対する、肯定や場の本質からの乖離批判とは関係ない否定も、
資本主義や民主主義に対する、場の実態である事をもって押し付けてくる実態主義への批判を取り込んだ内容ではない肯定否定も、

Aさんが指差してるものが何か分かる的な理解力だけ(限定なり加工なりの過不足を見る枠組みを、
自他の認識に対して、というか、割り引きが不可避である認識というものに対して働かせる形では持ってない為、
対象理解がいらぬ特化を含む)で知的上層になれてしまう文系教育と地続きなのであって、


(現実の疑似化程度を掴まえられないのも、自他が見せる現象解釈の疑似化程度を掴まえられないのも、
プレーヤー立場からか管理者立場からかの違いはあれ、フェア追求の不在の一種であると解せば、

対いらぬ飛躍の本筋となる、文系的局面での具体化精度最大化であるフェア志向を促さない既存教育は、
文系の理解力を表面的理解、小手先の解決に留めるよう強いてるようなものであり、
小手先の解決は限定通用的なので、余裕のある者が採用すると、余裕がないと見せかける条件偽装と変わらないのに、
この帰属操作に疑問を持たない、過保護系搾取者を社会に送り出してる形)


自他の思考に対し、それは局面次第(より正確には、局面がその疑似でない性質をもって決める事)です、それは各自の疑似でない固有性次第(より正確には、疑似でない内外事情にのみ応じる体像が決める事)です、
この種の指摘反応を取りこぼしなく持てる状態へと自分を仕向ける、この内容の決別を対既存教育で果たしましょう。


(仮に、各自の条件における上限で繋がってる状態を平等と解するなら、余裕があってなお余裕がない時と同じ振る舞いをする人が多いほど、その社会は平等的でないと見なせます。

内実不問な主観や主体が前提の世界では、仕方なくないのに自分が自分である限り仕方ないこれが自分であると言えてしまう為、
近代性を背景に持つ教育が人を送り込んでくる社会では、不平等現象に対してどれだけ糾弾し修正を試みようと、上の意味での平等なり助け合いなりは期待できないと捉え、
期待できる社会に寄せるべく、教育の背景を先の主体像やその下で獲得される固有性が前提の世界像に替えましょう。)



注、フェアを冒頭のように、平等や救済を末尾(フェアを越えない自他救済の内容込み)のように解すれば、
ハイデガーの他者性問題は、認識と実存の関係取り違え(対主観や対主体の論点取り違え)の話になるので、

ハイデガー以降に実際に見られた、搾取可能状況(内実の確からしいもの確からしくないものの混同状況)に誘導してる形の排他性批判
(都合の押し付けに都合の押し付けで返すのを、余裕のある者にも推奨してる秩序観)の、外に出てない流れに付き合わずに済むと考えます。

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