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2941文字、自己と社会のどちらか一方を修正対象にはしないよう誘導する言動(受けた糾弾を矮小化する自己正当化込み)に丸め込まれない為に

2024-4-001

同種の他との共通要素を捨象する処理、ひいては、AにもBにも言えるものをAに固有の性質としてしまうのを避ける態度が、教育対象になってない社会は、
認識場の個別性の取り違え(認識場における場と齟齬のない秩序の形骸化)を最小化してない人(認識場における割り振りに修正余地なさを持たせてない人)の感情や思考、

それも、内在物を自身の置かれてる場に合わせて具体化する能力(人がこれを持つ以上、場の個別性の取り違えの最小化でなく、
例えば、検閲的なものの有無自体を論点化するのは、現象把握に際する抽象度不足の現れ)としての理性を、

局面の個別性(姿勢制御における状況把握並みに無自覚に合わせてるケース込みなこれ次第で、内在物の無加工表出から無表出まである)の、
取り違えの下で用いてる状態(内在性を仮説として見た時の、精度の低い検証結果を仮説にフィードバックしてる事態)でのそれらが、

集積として社会の有り様に反映されてる事態を放置してるのに等しいと考えます。



この現状に対して、場の個別性の取り違えを最小化してる主体の振る舞いだけが反映されてる社会有り様からのズレを、
社会の個別性の取り違え部分(社会の中に位置付ける働きが、ドーピングによる金メダルを含んでる順位付けのような、
問われてるはずの差異と実際の割り振りとのズレの受容強要の側面を持ってしまってる原因部分)と捉え、

このズレだけを否定対象にしてるのではない対社会は、過剰肯定(修正余地なさを持たされてる場合と実際の有限性有り様とのズレ部分の受容拒否に失敗してる妄信系)か、
過剰否定(修正余地なさを持たされてる有限性の受容に失敗してる反動反発系)を帯びてしまいます。


つまり、自己と社会のどちらか一方を修正対象とはしないよう誘導してるも同然な言動は取り合う価値がなく(というか、本筋を埋没させる有害行為であり)、
この誘導を真に受け、丸め込まれた人達がその再生産や体現によって政治経済を矮小化してる事態に対し修正を試みたところで、

個別性が根拠になる局面(文系的局面)での、疑似化した個別性の根拠化(デカルト系)や個別性捨象の持ち出し(カント系)を、
文系教育の失敗(文系教育を担ってる人が責任を果たしてない現れ)と見なす教育観への更新

(特に、内外事情の個別性の取り違えを最小化した実存、能力なり情報なり可能性なりの獲得喪失、両者の整合を無視した獲得推奨に対する否定、
もっと言うと、その実存を生きるという自身の有限性形態に修正余地なさを持たせる現実をもって、
より確からしいものが取って代わる運動性という理想に対峙する事による理想を割り引く程度の最小化を妨げ、

存在把握すら有と無の差異に関する内外境界線、つまり、有限性形態についての仮説であるのに、
確からしさを上限化させた仮説が手に入らない生を強いる教育実践に対する否定)が果たされない限り、小手先の介入にしかなりません。


(同種の他との共通要素捨象を用いた抽象化具体化の不十分さを、文系的な論理性の欠如とする教育が達成されていれば、
理想現実関係に関するその意味での論理性の観点から、政治現象が、あるいは、ある時点の理想現実関係を紡いだものとして見た歴史が、評価される社会にいずれなるでしょうし、

上で言う整合が無視された獲得喪失有り様、もっと言うと、その類の有限性形態は、
自身を具体化する精度の低さから文系的な非論理性の現れと見なされる事になりますし、

利己利他枠組みをはじめとする自他分断的発想は、不当な扱いを受ける対象に関する、
ひいては、問題状態に関する抽象度の低さをもって、文系者にとっての修正対象になるはずです。


中学生にもなれば数学の公式に代入するという発想は持てるわけですし、暗記では異なる状況で思い出せない狭い通用領域を問題状態と見なしてるわけですし、
主体の行動原理と置かれてる状況を分離的に把握する処理自体は教育以前に持ってるでしょうから、
文系者なのに修正対象になってないのなら、検討に必要な冒頭の処理なり態度なりが養成対象になってないせいと言えるように思います。)



ちなみに、場と齟齬のある秩序を場と齟齬のない秩序に寄せる、かつ、場の個別性の取り違えを最小化する、
これらを埋没させる形で規制の強弱に介入するパターンの一つとして、共産主義系の標榜も、資本主義の標榜もあるので、

埋没させられてるそれら(場に置かれてるものが負わされる何らかに対し、修正余地のなさという、
それ以上を求めるとその解決不能さから疑似問題になる為に受容に値する条件と言えるものを持たせる試み)が本筋であり、

場を市場とした時の場の個別性の取り違え最小化は代替不可能な内外事情にしか応じない主体を増やす
(需給事情におけるその主体像の下での個々事情が占める割合を高める)事に他ならないとする立場にとって、


共産主義系と資本主義の対立構図は、実態軽視と実態を重視すれど内実確からしさについては不問
(もちろん、表層の汚れを拭うだけの実態露呈で済ます態度と言い換えられる)とを対置させる、

いらぬ対立による本筋の埋没(肥大化してない実態が根拠になってる状態へと寄せる帰属修正の働きかけとバッティングする点をもって為す、
両者への糾弾を、対立構図の相手側からの糾弾に混ぜ込む矮小化による自己正当化、
先に見たカント系とデカルト系の二択に地平を縛る近代パラダイムを生きる限り、前者な内容の糾弾への反応は当然そうなるだろうこれ込み)と言え、


平等概念や自由概念の通念的用い方の有害性(都合を受容に値する状態にまで持っていっているいないの差異が先立ってないせいで、
受容に値しない都合を保障する為の道具に成り下がってる事態)を示す分かりやすい例でもあると思います。


先の意味での理性は、意識を注力的な問題解決と解せば、その注力有り様を決めてしまう、
さらには、機能具合が、無意識と意識という限定前後関係には仮説と検証の関係が含まれてるとした時の、

フィードバックが仮説改善になるか仮説改悪になるかを、ひいては、問題解決の集積である生に修正余地がないかどうか、
もっと言うと、その人が自身の生に関して受容に値する状態にまで持っていけているかどうかを決めてしまうので、重要と考えます。


逆に言うと、上の二択縛りの意味での近代パラダイムや、その反映故に冒頭の事態に陥ってる既存教育は、
特化と引き換えに、理系的局面以外での理性使用が場の固有性との齟齬を抱えてしまう

(それらは個別性が根拠になる局面で個別性の取り違え最小化が選択肢にない枠組みであり、選抜は採用観点の下での通用してる領域の広狭判定の結果である、
したがって、場と採用観点との間の齟齬から、文系的事象での選抜は茶番の側面を持ってしまう)点から見て、
機能具合を軽視してる内容であると共に、受容に値する生に至るルートを潰す代物であるように思われます。

当然その場合、近代パラダイムを脱するのに必要な冒頭の処理なり態度なりを持たない欧米文系(および、その系譜と言える知性倫理美意識)の産物は、
受容に値する生と整合的な平等概念や自由概念を内包してない事になりますから、形骸物として付き合うに留めるべきと思います。

ご支援の程よろしくお願い致します。