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帰属の操作を可能する恣意領域の確保(文系の現傾向)に対し我々は、自身を棚に上げる系(自他非整合)の一種と見て、知的説得力の欠如を見るべきでないか

2021-9-001

個々事情の直接反映を、場の性質(需給事情)特定のスタイルとしてる市場や民主制に限らず、


最大限代替不可能化させた内在事情外在事情にしか応じない主体像由来のものに、
主体の有限性(理解はじめ、世界との関わり方の偏り)、及び、それによって対象(無限性含む)に負わせる事になる割り引き作用を抑えてない
(その主体像から乖離してまで能力なり情報なり可能性なりを得る事は、形骸上等な成立達成執着によるいらぬ特化と見なして、有限性を過剰に負ってる事態扱い)、

扱い(ポジションや具体的有り様の規定)が、各場の代替不可能な固有性に即してない
(アンフェアはもちろん、局面次第な問題を局面の性質とは無関係に語る極端さなど)、


これらを文系域の現象(何を保障するように制度などの形式を組み上げてるか、何を不当な扱いとして嘆いてるか等々)に対する批判点としてる主体が増える程、
外界が持つ割り振り原理(場の性質)の代替不可能性(引き受けざるを得なさ)は高くなるので、

その増加を促す働きかけこそが、
置かれてる世界における負わされるに値しないものの発生を抑える(帰属の修正)という意味で、自他を助けるものだと言えるように思います。



ところで、現実がこうだから次善の策もやむ得ないという場合にせよ、根拠として持ち出したその現実が、
次善の策に頼らずに済む方向へと押し込む働きかけが十分にあった結果のものかどうかで、受容のニュアンスは違うはずです。


市場や民主制のような実態反映志向に、上で言う主体増加働きかけを組み込んでいるいないは、そこの差異に相当するでしょうし、

やむを得ない噓にも同じ構造が言えるでしょうから、有限能力の事情で認識はある意味常に嘘(飛躍)を含んでると捉えると、
自身の為す認識はすべて、先の批判点が自身に向けられ機能してる
(不確定なものにある種の嘘を加え確定的にする処理に対し、局面事情等に即した範囲に抑える働きを持ってる)場合に肯定される、
そう厳密には言えるのでしょう。


しかし、その批判点に耐えられるものを得ようにも、文系域での代替不可能化には、同種の他との共通要素捨象が必須な為、
教育を通して刷り込まれる既存パラダイムとのバッティングが問題です。


局面の固有性を捉えるという局面(無自覚なもの含めれば常時)に、同種の他との共通要素の最大限捨象を紐付けた上で、
その捉えた結果に合わせた着目無視(同種の他との差異要素捨象含む)を展開する、

自身の中のこの構造を確からしくする流れに、近代パラダイム
(同種の他との差異要素捨象が特権的地位にあるせいで、文系域では、局面と着目無視の不一致がデフォルトなのに世界標準)の刷新が伴う。


したがって、近代人センス(文系域では質の無視、つまり、成立達成執着の形になる)の産物が、

言わば、ドーピングして得た金メダル、せずに得た金メダルとの間に扱い差を付けない的に、
内実の確からしさ差(場が問うてる差異と取り出されてる差異のズレ程度)を捨象してる内容の獲得観(損得観、権利観)や、
内実の確からしさ差を捨象したもので紡ぐ内容の思考観(文系域での論理観)、歴史観の産物が、

つまりは、帰属の操作を可能にする恣意領域の確保が、正当化され続ける事態
(実際、文系の知的上層は、このレベルのものを権威を使って未だにまかり通らせてる)への対策の本筋(近代との決別)は、
同種の他との共通要素捨象の土台化。


そう解して、安易な現実根拠化を厳密な意味でも受容に値する話にすべく、その土台化を自他に働きかけ(批判点に含めるなど)ましょう。



思うに、局面の性質に、着目無視含めた反応を合わせる、という発想がない人でも、これこれをしてはまずい的な判断状況に置かれる時はあるだろうし、
という事は、今はその類の状況でないとの判断の形ではあれ、局面に合わせてはいるわけです。

つまり、局面に合わせる合わせないではなく、局面の性質把握が浅いか深いかの話
(表層的な要素を削ぎ落す事で、恣意的側面持ち込める隙を潰せてる程度の差異)があると見るべきでしょう。


(条件がちょっと変わると通用しなくなる段階のものは、林檎を数える能力でしかないから蜜柑は数えられない的状態で据え置かれてる事を意味し、
専門外ならそれも仕方ないにせよ、
局面把握の深浅は、自身の有り様や自身が自他に負わせるものについての、そうならざるを得なさに直接関わる以上、専門外だから的な言い訳に説得力はないはずです)


局面の性質把握が浅い(同種の他との差異要素捨象の能力を育成しない既存の教育、その背景にある近代性が主な原因)為に、今何を捨象すべきなのかの判断が的を外してる、

この現れとして、内面世界の割り振り原理に相当してるものが肥大(重視軽視のかく乱要因)を抱えてる事態
(疑似的自己の産物な感情、疑似的自己の発露でしかない欲求実現など)もあるのだと思われます。


対自己含む既存の救済観は、フェアを越えてまで助ける側面を排してない以上、
ポジション次第で不当獲得(それに相当する分を奪われる立ち位置の創出)は許される、というご都合主義
(人一般なり存在一般なりへの尊重を掲げてたら形骸と言える立場)の産物と言えるでしょうが、

各場の代替不可能な固有性に即した割り振りへと寄せる、帰属の修正作用の中に、
救済も(重視軽視のかく乱要因が除去されたポジションと整合的な着目無視を選ぶ態度という内容をした、通用領域がより広い気がする方選ぶという選択反応に思われる、形骸でない自由平等も)含まれてると見るべきで、


人類は、その割り振りを条件上の救済上限と見て、
各場の性質(割り振り原理になる)の代替不可能度を上げてく事に救済の実質を見るパラダイムへ差し替えるべきと考えます。




注1

引き受けざるを得ない要素を内外に求める、表層形はその結果としていろいろあり得る、というだけの話であって、
先に表層形の多様性を求めるのは、形骸不可避な質軽視(成立達成執着)に思われます。


注2

有限能力である以上、世界との関わり方には偏りが避けられないわけで、
有限性(内外境界)が与件という前提は、
ある偏りを持った場に置いてしまうし、置かれてしまう事(その偏りに即した扱いを与えるし受ける事実)を意味しており、

各場の代替不可能な固有性による割り振りしか認めない方針は、
他の場の割り振り原理を持ち込ませないという話なので、

例えば、できるだけの事(質を保存しつつのこれにはある主体像の採用必須)をしたからこれ以上無理、という場合の確定性高い内外境界線のように、
偏りに確定性を求めた結果、避けられなさ(負うに値する水準)が保たれる為、

有限性制約をそのまま現す(形骸化させない)方向性に相当する。

そうだとして、対象尊重については、
Aという場ではこういう扱いだけど、Bという場ではこういう扱いです、という話をその方向性に乗せる
(対象を恣意の道具にしないさせない方向に向かう)イメージを考えてます。


注釈3

例えば、本筋を諦めて次善の策でいくという場合、状況に合わせて具体形を変えてる(加工処理)わけですが、
加工ではあれ、場に即してるなら帰属の修正であり、状況が変化してなおそのまま等は帰属の操作、そんなイメージです。

現象は、内在の性質と外在の性質が合わさったもの、つまり、抽象状態と具体化条件のそれぞれに帰属してる部分を持ち、
本質的でない性質は代替可能(他もあり得るもの)な為、削ぎ落す事が帰属の修正、という事になろうかと思います。


(何ら限定されてない状態の準備と、その状態のものが引き受けざるを得ない限定条件の割り出し、これらの最大限化しか問題は存在しないので、

例えば、歴史展開や論理展開にしても、抽象化具体化の交互反復から成る表層形変転であり、具体への過大過小位置づけの修正問題を常に抱えてると言えるでしょうから、
世界にあるのは事実上、それらを最大限試みる事による、有限性与件下での通用が行き渡ってる状態確保の問題だけなので、


既存の教育を受けるだけで十分、帰属を修正する働きが上の意味から乖離するのを抑えられるようになると期待できる理系知性は別として、
受けても乖離を抑えられない文系知性や倫理は、形骸状態にある、
言い換えると、選ぶに値しない通用の行き渡ってないものを行き渡ってる扱いする事で選ばせ、通用領域のより広いものへの移行を阻害する状態にある、

本文の例で言えば、需給事情における実態と上の意味での帰属の修正形との間のズレを、修正要する部分として押さえた対象理解や構想を持つところまでいかない、
故に表層的、小手先的な解決像しか思い描けない、

そう見るべきでしょう。)

ご支援の程よろしくお願い致します。