日本における思想の裾野の改善法、右派左派対立に振り回されない立脚地についての考察
2019-11-010
日本における思想家に関するスレへの投稿内容
マニュアル仕事が全否定はされないように、獲得されてる安定(伝統級の権威から根拠ない自信まで)を、
検討する内圧が原理追求レベルであったとしても、
より確からしい秩序へと結実可能な段階にないのなら、検討を控えてくれた方が有り難いわけです。
実際、右派左派の対立構図で目にする不健全さをもって、
その種の領域にできるだけ踏み込まないとの選択に至るのは、
不健全さに染まらずに済むだけの立脚地を持たないなら賢明と言えます。
問題は、余裕や実力あるのにいつまでも自転車の補助輪付けてる的傾向や、
実力獲得についての知見の実質的不在が、裾野に響いてる分野として思想もある点でしょう。
前者には、場の表層でなく場の本質に即した役回りに引き受けを限る、
場を越境しない配慮でもって安定を得る(マニュアルは次善の策が必要な局面に限る)、
それらを日本の達成課題として意識する人を増やす対策が必要と思います。
後者は、競走の厳格な運営と同じ構造、つまり、問われるべき差異と問う形式の合致を、
主張や理解への扱いに取り込むべく、対理解(対象に関する、抽象と具体の関係構造を確立できた感)に、
抽象化と具体化条件割り出しの最大限追究(具体形パターンの網羅への志向)、
問われるべき事(場の本質)と捨象(着目無視)の合致配慮(場を越境しない配慮含む)、
この両者の相補性から成るいらぬ飛躍の除去を観点として持ち込む、
その必要性の周知が思想系での対策に思われます。
また、欧米も先の対立構図に振り回されてる段階と言えますから、
先の立脚地を持てれば、少なくとも倫理面では、欧米を追い越す形になるはずです。
上の最大限追究を欠いてる自由やアイデンティティ(個人や社会や国)の引き受けは形骸、
上の合致配慮を欠いてる平等や人間性(次元設定の自在性)は形骸、
そうした理解がその立脚地になり得るなら、後者の対策が追い越しに繋がります。
例えば、資本主義や共産主義における、場の本質を損なってる統治形式への許容に対する、
対象が場(主体や市場の需給事情)に置かれる前後の関係正常化(洗練含む)を対経済での論点としてない、
抽象と具体の行き来(歴史性)からいらぬ飛躍を取り除く事への責任が歴史観に含まれてない、
それらを原因と見た上での振る舞いは、そうした理解の展開(主義と関連する形骸を通してその両者が齎されてる)です。