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個性に実質を与えるところまでいかないこれまでの教育と、生活に反映されざるを得ない矮小化された政治は繋がってるという話

2020-10-007

実力を、対応体系として持ってる抽象具体関係構造が現実の複雑さに通用してる程度(通用領域)と見るとして、
各人の資質や環境により、その構造の通用性向上の起きやすさに分野的偏りが出るのは当然と言えますが、そこの偏り(ひいては、その人の有限性の形)に確からしい根拠があると言えるのは、

(低多様性への短絡反発から高多様性という形態に固執し、実質の詰まった表層形でなくとも個性として認めさせようとする教育なり、
悩み苦しみを属性への転嫁で済まし、取り上げるだけの価値有無判定や負う必要ない部分特定の精度向上が期待できる、フェア化や検討済具体化条件付し直しを働きかけてない教育とは付き合わず、)
資質や環境における代替不可能な要素のみを、つまり、引き受けざるを得ないものだけを引き受けてる結果の注力傾向の現れと見なせる場合のみでしょう。

例えば、自ら進んで勉強する主体性を身に付けるよう、小学生が周りから仕向けられつつも、己の資質環境的にそぐわないから取り合わないというケース(ある枠組みのインストールの拒絶)も、
その種の注力傾向(自己判断できるだけの実力)の現れ(実質の詰まった有限性との齟齬の忌避)なら、むしろ主体性の護持と言えます。

逆に言うと、代替不可能とは言えない表層的要素に、振り回されていない生
(振り回されてる状態での、つまり、通用領域が広いから確からしいとの判断を狭いものに対して下す己のミスに由来してる、肯定否定が対象の存立に関わるレベルで展開される事態も避ける事ができてる生)
にできるだけ早く寄せれるに越した事ないので、

大騒ぎや見て見ぬ振りを振り回されてる扱い、自身にいらぬ限定を与えてる
(より確からしいものが取って代わる運動性への限定作用、つまり、何について展開させるかの判断が実質を欠く)扱いしつつ避けるセンスの体現として、
局面と着目無視とを乖離させてない振る舞いに徹する姿勢(この意味でのフェア化)を、小学生の要約学習に先立つ(要点導出能力を生かす基盤)意識で獲得促すべきと考えます。



その姿勢は、捨象対象選定と各局面での確からしさ差を意味する差異取り出しとの合致精度を高める前提ともなるでしょうから、
主観を根拠に値する状態へと持ってく際にも用いられる関係で誰にとっても必要と言える、
同種の他との共通要素の捨象による、通用が行き渡ってる状態としての性質を見出す(代替可能な要素を削ぎ落とす)能力の向上にも繋がりますし、

固有性を場について割り出せれば、場の本質を損なわないように形式や帰結が組み上がってるかどうかの判定精度も上がる関係で、
己の注力傾向による偏りが不可避とはいえ、情報が帯びてる体系性や社会(大小様々)の管理実態を評価したり、対人において相手の価値観や世界観が負ってるいらぬ限定、いらぬ偏りを掴まえる精度にも繋がるはずです。

また、それを反応の基底に据えてる人が多くなるほど、場が決めるところの表層的要素に振り回されてない、表層に見られる偏り有無について場以外を根拠にさせてない秩序、
つまり、差別や不当格差、及びそれらの符号反転解決が、場の固有性把握の精度向上と相まって生じにくい環境へと近付くはずです。



一方で、自国社会の管理者実力は、影響の範囲を考えると、
(扱いにしてもポジション割り振りにしても場次第、つまり、場の性質把握の精度が論点であり、得意でないのに担わされる事も一般的にはあるとは言えど)高いに越した事ない上、
被管理者からの実力確保の要求圧力も、管理者ポジションにとっては引き受けるべき類のように思われるのに、

場の本質を損なわないように形式や帰結が組み上がるよう、管理者も被管理者(国際社会においては国)もコミットする規準像
(例えば、大会運営も選手も、問われてる差異をそれぞれの立場から的確に浮かび上がらせる存在と見る)は、

権益対立(自覚ない権益保持含む)枠組み(歴史変遷の論点を、抽象と具体の行き来における抽象化具体化の精度最大化以外に求めてる枠組み)なり、
理想と現実を排安易にバランスさせる原理(通用を行き渡らせた抽象状態へと、個々具体から一旦遡り、代替不可能な具体化条件を付し直す作業としての加工原理)の不在なりによって、矮小化させられてるわけです。



つまり、ある種の管理者被管理者関係を取り巻いてる文脈が、捨象の精度(捨象対象への選定偏向や閉じてる有り様に対する問題視)とは無関係な代物なせいで、
生活が先の規準像の下に導かれるものから乖離させられてる形(文脈の設定失敗による話の矮小化に付き合わされてる形)と言えて、

それは、その文脈を事実上作ってる、少なくとも責任ある立ち位置の、文系者の知性(実力として想定されてるもの)が、
先のできるだけ早く獲得すべき姿勢を取り込んでない(教育がその姿勢の獲得促しを組み込んでない、
つまり、理系的捨象に偏ってる世界標準知性に盲従し、主観が根拠となるような、表層形でなく内実の代替不可能程度に確からしさ差を見るべき局面に対する対応体系へのケアを組み込んでない)結果の事態

(知識の内容や位置付けが表層的要素に振り回されてると言えるものであっても距離を取ったり、修正形に考え巡らせたりが期待できない状態に留まって情報の量を追うセンスに、
内実の質が問われる領域での影響力を許してきた帰結)と想像されます。

ご支援の程よろしくお願い致します。