見出し画像

5296文字、文系域での対歴史(人生も政治も)や対論理の有り様を捉え直す(1641文字の短縮版も付記)

2023-7-003

先に短縮版

個別性が根拠になる領域(文系域)での対歴史(人生も政治も込み)や対論理(感覚的な結論導出も込み)には、量重視状態から質重視状態へと持ってく事


(無限性が有無枠組みを含む有限性に先立ち得るにせよ、有と無が完全一致でない、つまり、有は無でないし無は有でないとか、そのように扱ってる時点で、

内外境界なり限定前後関係なり、有限性が存在現象や認識現象に先立つ点を踏まえ、
現象を内在性質外在性質の統合体として、同一性と変化の関係を抽象化具体化の交互反復として、それ以上の意味を付さずに見た場合の、

内外性質が同種の他との共通要素捨象に十分さらされているいないや、同種の他との共通要素捨象用いた抽象化具体化の十分不十分が、区別されない次元設定から、
代替不可能な有限性に帰属してないものが混入してないかどうかと、受容せざるを得なさの強弱とを整合させてる次元設定へと持ってく事)


が要請されてると解しましょう。
(この場合、例えば、後者状態でない人生や政治に対して、表面上どう見えようとも、帰属操作を内容にしてる奪い奪われの含有物扱いする事が求められてるわけだけれど、

同種の他との共通要素捨象の能力獲得機会や意義を潰す既存の教育有り様と学問有り様は、
上の区別されてなさを区別しないという徹底化の方向に特化させる理系特化の働きをするので現状、形骸化しない受諾は現実的でない。

実際、過剰に特殊化してる実態を雑と見て、不当合理に反転させる系の表層洗練に解決を覚える、
逆に、過剰に合理化されてるものを雑と見て、単なる実態露呈に反転させる系の表層洗練に解決を覚える問題解決観によって、
今なお、表層次元の洗練追求と内実次元の放置から成る構造に、話がすり替えられてしまう、とも解しましょう。)



また、疑問を持つ持たない、修正余地を見出す見出さないといった自他の反応が、
抽象化具体化のその時点での十分さに至っていないいるの差異と一致してない場合、その反応には疑似問題側面や疑似解決側面が混じってる上に、

対自己や専門分野のような詳しいはずの対象に関してなお不一致が生じてるなら、
次元設定自在性(哲学水準の疑問見出しすら可能なそれ)という人間性を生かせてない事態
(対文系で生かせない事態の主因は先に見た、既存の教育有り様)であると解しましょう。


特に、代替不可能な内外事情にしか応じない主体像ではない主体には、そのズレに相当する修正余地があって、
この修正余地への具体的反応も、その主体像を具体化条件として具体化されたものでないのなら修正余地がある。

したがって、人の負う責任はこれら修正余地だけであって、この観点から見た過不足ある要求は、
誰に向けられたものかによらず、有限の与件性への受容拒否の反映分だけ冤罪を生んでたり、
有限の与件性が持つ受容せざるを得なさと他(有限性の代替不可能化、ひいては、有限の与件性そのものの取り出しが論点ではない何か)の受容に値する感との間の扱い差異の無化分だけ泣き寝入り強要を生んでる。

この理解を、絶対主義は過大要求であり、相対主義は過小要求であると拡張した上で、過去の誰かにも適用する事により、
テキスト解釈問題における読み手価値観絶対主義と書き手価値観相対主義を同時否定し、同時否定できてない人の解釈とは距離を取りましょう。


同様に、真善美や絶対者といった理想ポジションとの間に生じる距離についての過大要求や過小要求には、たとえ権威が付されてようと付き合わず、
理想ポジションに対する割り引き的関わりの程度を、代替不可能な有限性に帰属してる状態へと持ってく処理に相当する上の主体像への志向を持つよう、個々主体に求める要求を、

余裕の有無という局面差異に関係なく付してない時点で、内実の確からしさ差異を区別しない量的発想に過ぎない類の操作、
例えば、需給設定への参加資格、救済や財産の獲得資格についての緩和、維持、強化といった操作に知性倫理美意識の矮小化(質重視状態へと持ってく為の帰属修正の欠如)を見ましょう。




以下、短縮前

代替不可能な内外事情にしか応じない主体像(もちろん、内在不問外在軽視やその逆とは論点が異なる)ではない主体には、
(振る舞いや自国社会なり国際社会なりのポジションがどうであろうと)そのズレに相当する修正余地があって、
この修正余地への具体的反応も、その主体像を具体化条件として具体化されたものでないのなら修正余地がある。


上の前文で言う主体は、昨日の自分でも良い。
(遠い過去の誰かが何か思い違いをしてたところで、その人の負う責任はこれら修正余地だけであって、
この観点基準での過不足ある要求は、誰に向けられたものかによらず、有限の与件性への受容拒否の反映分だけ冤罪を生んでたり、
有限の与件性が持つ受容せざるを得なさと他が持つ受容に値する感との間の扱い差異の無化分だけ泣き寝入り強要を生んでる。


この平等的理解は、できないとか失敗とかを内実の確からしさ差異とは、つまり、理想現実関係に修正余地がないとの意味での上限を紡いできた結果な有り様の反映かどうかとは関係なく否定肯定し、
それらの具体的扱われ方を、場の疑似でない固有性との整合と関係なく決めようとする表層次元のみで生きてる生、

言い換えると、抽象化具体化の十分不十分の差異、特化の過不足の有無を区別しない質軽視な生、
当然、量重視局面と質重視局面の区別をつけず前者で要請される処理を後者に越境させる為に、
受容に値するとの意味での質について、改善機会や装われてる状態の修正機会を逸したり奪ってきた生からの脱却、

および、そうした生を、したがって、内実の確からしい表層形への肯定拒否や内実の確からしくない表層形込みなバラエティの要求を、
正当化してる言動に対し、真に受けてしまう理解力からの脱却だけでなく、


テキスト解釈問題における読み手価値観絶対主義と書き手価値観相対主義の同時否定にも必要、
したがって、他者の為す文系テキスト解釈やその反映物との、受容に値しないものの含有程度を踏まえた付き合い方にも、この理解が必要であると考えます。)


また、主体集積としての何か(例えば、上の意味で不備のあるテキスト解釈の産物塗れな議論なり需要交錯なり)に拡張しても良いし、
同種の他との共通要素の捨象を用いた抽象化具体化(限定されてない状態の準備と限定条件の割り出し)が不十分であるものとしての文系事象一般

(その中に含まれる理系的主題における、同種の他との差異要素捨象用いた抽象化具体化の不十分さ、
あるいは、論理について、通用が行き渡ってる状態を保存しつつの表層形変転として抽象化できてないか、
その抽象化ができていても、個別性が根拠になるならないの局面差異に合わせて、抽象化具体化に前者捨象用いるのと後者捨象用いるのとを使い分ける具体化ができてないか)に拡張しても良い。


(したがって、前者捨象を機能させられない人の文系事象に関する言説に対しては、

疑問を持つ持たない、修正余地を見出す見出さないといった差異が、抽象化具体化のその時点での十分さに至っていないいるの差異と一致してないという意味で、
つまりは、他の意味での使用も混入有りと見なすところの、疑似問題側面や疑似解決側面の混入をもって、
さらには、哲学水準の疑問見出しすら可能な、次元設定自在性という人間性に対する振り回されや持ち腐れをもって、

受容に値しない質のものとして扱う事にして、その種の言説であると見なせるものには、
冒頭の主体像を支持してない、つまり、冒頭の主体像と整合的でない在り方を個人等に関して語ってる形の理論、

例えば、次善の策に対する局面の要請に即しているいないとは関係ない否定や、余裕が生じてなお次善の策を採用し続けるという局面変化に即してない肯定、
という先の要求過不足が対次善の策で生じてるのに、自身の倫理に疑問を持ってない提案も、


例えば、理性に対し、局面の個別性への反応を個別性捨象に限定した上で、内面の産物の具体化を局面に即させる働き以上の意味付けを与え、知性や倫理の証拠かのように扱わせたり、
この事態への異議申し立てとして、局面の性質把握に際する疑似部分除去の論点化というこの疑似化事態の修正に必要な方向性を埋没させる、表層形反転でしかない反動的像を支持したり、

上で見た不一致の回避が対論理に先立ってない為に同様の構造が、具体形パターン網羅とか普遍通用性とかを量重視次元に限定した論理観に関して展開され、論理の矮小化がいつまで経っても直らなかったりと、
抽象化具体化の不十分さ解消が機能してない対概念の帰結物で構成されてる理論も、


全て該当する為、権威の付され具合によらず、量重視側面と質重視側面の区別を付けつつ情報と付き合う事で、
上の側面の影響を抑える必要があると言えるけれど、これを欧米文系に対して既存の学問界が未だできておらず、

どれであれ上の側面を含む為に矮小化されてる哲学の取捨選択なども込みで、欧米文系の産物に含まれてる上の側面を修正できないまま受容するいらぬ特化、
および、受容せざる得なさの強さを有限の与件性レベルでは保証しないせいで、そこの強さ偽装の道具と化してる文系権威有り様の保存に、
疑問が持たれないでいる状況が続いてるのも、先の平等的理解の欠如故でしょう。)



以上を認めるとして、問題になるのは、冒頭の主体像の持ち主だけから成る世界ではない場合に、
何々を満たしていれば良いという資格付与条件が、量重視による質重視局面への侵略を引き起こしてるケースでないかと思います。

冒頭の主体像であれば、抱えてる事情についてそれ以上確からしくできない上に、
外在場の疑似でない固有性を尊重してる(内在場に対してであれ、外在場に対してであれ、
疑似化の許容は他の場による侵略の許容に同じである為、場を尊重してる事にならない、

もちろん、疑似化してる性質の保障を理由とする整合への肯定否定は、冒頭の修正余地枠組みに落とし込む)わけなので、
外在場の整合を受けてるその振る舞いは、外在場を共有し、外在場の疑似でない固有性を尊重してる他の主体にとって受容に値するものと言えます。

(この尊重は具体化精度最大化の試みに相当する為、この尊重の結果を紡いでできてる歴史からのズレと、
取り違えた文脈での位置づけが反映され続けるなどの、通用の行き渡ってる状態を維持できてない文系論理の展開とは、同じ構造なので、

個人レベルにせよ社会レベルにせよ、対歴史におけるそのズレを修正余地として取り出せないスルー有り様は、
先の要求過不足を抑える原理の不在、ひいては、対文系論理における修正余地の同規模のスルーが、その人に関して言えると示唆されます。)



この意味で受容に値するしないの差異を無視、ひいては、受容に値しないものを受容に値するもののように扱わせてる事態を無視する事が、
局面事情と着目無視設定との合致(場の尊重)と言える量重視状況も、言えない質重視状況もあって、

冒頭の主体像は、局面に即した量重視と質重視の行き来も期待できる(局面と着目無視との合致の一種としてフェアを見た時の、
フェアを越えた尊重に修正余地を見ると期待できる)どころか、受容に値しないという状況を上の理屈で齎さないわけですから、

受容に値しないものの受容強要から身を守る類(例えば、人権主権)であっても、受容に値しないものを負わせる道具になるという着せ替え装置化してしまう中で、
冒頭の主体像の持ち主を増やせば増やすほど、資格を理由に受容に値しないものを負わされる程度は下がると見て、


受容に値しないものを負わされない世界の方に与する為にも、冒頭の修正余地規定を採用しつつ、
資格付与条件の緩和なり維持なり強化なり、そうした表層形自体(どれであれフェアを越えた尊重非尊重があり得る)に倫理を、

見る人(宗教レベルの救済資格も、現実有り様を、ひいては、真善美含む理想ポジションに対する割り引き的関わりの程度を、有限の装われてない与件性の反映へと持っていってると言える、

つまりは、抽象化具体化の不十分さ解消を対理想で試みてると言える冒頭の主体像的実存の、
満たし具合とは未だ、理想ポジションとの関係改善を要求してる系ですら関係がないので、先の要求過不足を内包してる)や、
見てる理念(当然、相対主義系か絶対主義系かによらない)に対して、冒頭の修正余地を見出し、


有限(内外境界発生)の与件性が持つ受容せざるを得なさが受容条件になってる状態にまで帰属関係を修正する
(内在性質外在性質が代替不可能化されてない状態、あるいは、抽象化具体化が不十分な状態に対して、
有限の与件性が装われてる事態も同然であると見なす)方向と整合的な知性倫理美意識へと更新するよう、

冒頭の主体像を越えない範囲で働きかけていきましょう(拒まれたところで、自己から自己への過不足ない要求は満たしてる)。



注1

数学で自然を説明するという事態(ガリレオ以降の理系)は、前者が個別性に対して差異を付けないという設定の採用と同時に立ち上がる体系である為に、
個別性に対して差異が付けられない体系である後者を説明可能、との事情によるのでないかと想像しますし、通念的な論理学は前者の立ち位置なのではないかとも思います。

いずれにせよ、個人的な印象としては、数える時に個別差異を捨象する数世界も、電子間での区別がつかない物理領域(個別の変化における遅速差異を捨象する整合もあるように見える)も、
可能世界込みで量的普遍通用性を確からしさの根拠にしてる(具体化精度の高低差異を気にしないタイプの具体形パターン網羅を選んでる)論理体系
(内容言及有りな指示も、内容言及無しな指示も、具体化の結果という点で同じもの扱い)も、同じ次元にあるものに思われます。


問題は、文系域では量重視状態(無限性が有無枠組みを含む有限性に先立ち得るにせよ、有と無が完全一致でない、
つまり、有は無でないし無は有でないとか、そのように扱ってる時点で、内外境界なり限定前後関係なり、有限性が存在や認識に先立つ点を踏まえ、
現象を内在性質外在性質の統合体として、あるいは、同一性と変化の関係を抽象化具体化の交互反復として見た場合の、

内外性質が同種の他との共通要素捨象に十分さらされているいないや、同種の他との共通要素捨象用いた抽象化具体化の十分不十分が、区別されてないという、
通用領域の広狭と確からしさとの相関が量に関して持ち出されてる形の次元設定)から、


質重視的状態(代替不可能な有限性に帰属してないものが混入してないかどうかと、受容せざるを得なさの強弱との整合)へと持ってく事が、
対歴史(後者状態にない人生や政治は、表面上どう見えようと帰属操作を内容にしてる奪い奪われの含有物)や、
対論理(対展開の点で同じなので、同様の問題が整合化による通用の行き渡らせに関しても言える)には要請されてる

(ただし、同種の他との共通要素捨象の能力獲得機会や意義を潰す既存の教育有り様と学問有り様は、
上の区別されてなさを区別しないという徹底化の方向に特化させる働きをするので現状、形骸化しない受諾は現実的でない)と解するべきだろうに、


話が、表層次元の洗練追求と内実次元の放置から成る構造にすり替わってしまい、
権利観がその構造に落とし込まれた結果である、本文で見た着せ替え装置化(奪うか奪われるかの二択世界の産物に矮小化されてる事態)などが、引き起こされてきた原因の一つ

(言わば、過剰に特殊化してる実態を雑と見て、不当合理に反転させる系の表層洗練)である、
上の論理体系を論理の全体像と同一視する等、理系の処理センスを個別性が根拠になる局面に持ち込む人が後を絶たない点です。


(言わば、過剰に合理化されてるものを雑と見て、単なる実態露呈に反転させる系の表層洗練に繋がる為、

内在的問題解決スタイルにせよ外在的問題解決スタイルにせよ、行動原理を一つの仮説として見た時の、
仮説にフィードバックさせる検証結果に相当するものを、上のタイプの具体形パターン網羅でもって得てるケースであろうと、
その仮説の根拠化に疑問が持たれない量的センス、特に、個別性保障という大義名分下でのそれも原因の一つ。)



注2

認識は常に、通用領域の広狭と確からしさとの相関を踏まえた選抜結果であって、どの観点の下でその相関を持ち出すのかで選抜結果が変わる為、
論点は、着目無視の設定に対するその相関の適用への阻害除去の程度であり、
個別性が根拠になる局面での個別性捨象や個別性内実無検討に疑問が持たれないという、知性倫理美意識どの領域でも今なお支配的なパラダイムは、この意味での阻害要因。

無限性をより確からしいものが取って代わる運動性そのもの(常に通用が行き渡ってるという意味で上限自体)と見なすと、
限定作用である観点を無限性の受け手として位置付けた時の、阻害ある受け皿から阻害ない受け皿へと持ってく話、上の論点はそう捉え直せる。
(無化含め存在の扱われ方が、言い換えると、存在の受ける整合作用が受容に値するかどうかも同じ構造の話。)

ご支援の程よろしくお願い致します。