引越しと古本屋と愛

県外の大学に進学したことに始まり、就職、転職、同棲していた男との出会いと別れ、転勤といった理由が重なり、ここ10年ほど引越しの多い人生を送ってきた。大学進学からこれまでの14年で、なんと8回引越ししている。ここ数年の私の口癖は「定住したい」だった。

定住できなくて何が困るかというと、物を持てないことだ。困るというよりは、深刻に困って悩むわけではないけれども、生活の幸福度が下がってしまって少し残念というところだ。具体的には、本の所持に制限がかかることが、自分にとって少し悩ましい。
電子書籍の普及で、本は書籍媒体そのものを物理的に所持していなくても、愛用する天下の林檎印の薄くて賢い端末一つで気軽に楽しめるようになった。だからといって、本が欲しいという欲望が、全く消えることはない。私にとって本を買い求める行為は、自分という人間を確かめ直す行為に近い。
他人が作った作品を読んだり聴いたりするとき、そこには受け手としての私がいる。作品に一対一で向き合って、作品に心を動かされたり、思考を刺激されたり、感情の琴線を爪弾かれる私がいる。そんな私がいるということを忘れないでいるために、私は本棚に本を並べ続けていたい。
そうでもしなければ、そんな私がいることを、自ら見失ってしまいそうなのだ。日々の仕事や生活や人付き合いは、不器用な私には煩雑で面倒で難しいことばかりだ。そちらの対処に忙殺されるうちに、作品という他人に率直な心で向き合い、自由に考えたり感じたりすることを、忘れがちになってしまう。

ある本を読んで物を考えた私、物語の人物の生き方に愛おしさを感じた私。美術館の展示に感動した私。そんな私が居たことを忘れないために、読んだ後の本や展覧会の図録を棚に並べていたいのだ。

と、こうやってどんなに好きな作品を手元に持ち続けたいと願ったとして、引越しが多いとそうもいかない。本は何より重量があって運ぶのも大変だし、転勤だと社宅生活になるため、本を満足いくだけ保管できるスペースのある広い家には住めない時もある。

というわけで、引越しの度に、私は本を整理も兼ねて手放してきた。どうしてもこれがないと私の魂が欠けてしまう、というようなもの以外は、古本屋に託すことにしている。
古本屋へ本を売りに行く道中で願うのは「この本たちが好いてもらえる人にちゃんと出会えますように」「こんなの、探してたの!と喜んでくれるような人に手に取られたらきっとラッキーだなあ」という本のその後の人生(?)の幸福、「あの本屋さんの本棚にお邪魔しても、快く受け入れてもらえますように」というお店と本が仲良くできること。
とはいえ、無茶苦茶な読書家でもなければ出版その他の業界人でもない、ただのしがないOLの私に、自分が買った本の未来を保証してくれる場所など判別しようがない。できることといえば、本当に本が好きな人がやっている地元の小さな古本屋さんに、どうぞその審美眼にかなうものがもしあればお願いします、と本を差し出すことぐらいだ。
売りに行く前にまず事前にお伺いして「小説も沢山置いているね、こういう雑誌も置いているね、じゃあうちのこの本も置いてもらえるかな?」と確認に行く。その後、本を沢山詰めた紙袋片手に、袋の底が破れないようにようく気をつけながら、えっちらおっちらと買取に訊ねる。これが私のここ数年の引越しのタスクのうちの一つだ。


そしてこの春、9度目の引越しがある。結婚退職を機に社宅を引き払い、婚約者の住むマンションに一緒に住むことになったのだ。新しい家(といっても、婚約者と付き合い始めて以来は、仕事が休みの週末はいつもそこで暮らしていたのだが)は、学生時代に住んでいた区と、転勤前に住んでいた区とのちょうど境界にある。全く知らないわけではないが、暮らしたことはない町だ。

この私が新しい生活を始める町に、どうやら良い感じの気配のする古本屋があるらしい。新居から歩いて10分かかるかかからないか、天気の良い日の散歩にちょうどよさそうな場所にある。なんと運がよければ、店に猫も出勤していることがあるらしい!猫!
というわけで、3月末の引越しに向け、私は新しい町の本屋の視察に出向いた。今度の引越しで出る本を、受け入れてもらえるかどうか。ついでに、猫も見たかった。猫いいなあ、本に囲まれる猫って画としてとっても良いだろうなあ、ああ、猫…。

結果として、猫はいなかったが、本が存在している幸せが家の最寄りに確かにあることが分かって、良かった。

私は店に入るなり、本棚の端から端までを一人黙々と眺めることに夢中になった。
文学、芸術、漫画、学術書、あらゆる本が、この辺りの店にしては意外と広いなあと驚くものの、決して悠々として広大とはいえないぐらいの狭さの店の中にひしめいている。本の状態もいかにも古書という擦り切れた風貌のものから、まだまだお綺麗な姿のものまで様々だ。
そしてこの店の本に囲まれる私に浮かんだのは、きっとこれらの本たちは、もとの所有者たちに、愛もしくは愛の可能性を見出されて手元に引き取られたものばかりなのだろうなあ、という甘い空想だった。この本が是非とも必要だという情熱、この本がきっと自分の精神を満たしてくれるはずという期待、そういう愛や愛の可能性を見出された本たちであったら、いいのになと。

甘い空想にふけりながらさらに店の奥に入ると、どこかで読んだ覚えのある分厚いハードカバーの本があった。10年以上前に、大学の卒業論文を執筆するときに読んだ気がする。
思わず手に取ってみると、いくつかの細い付箋がついたままだった。そこで付箋の箇所を開いてみて驚いた。付箋の下には、私が学生時代ゼミで専攻していた内容に関する記述が並んでおり、これはもしかして同じ教授についていた学生さんの本なのでは…?としか思えない。私の通っていた大学はこの古本屋の最寄り駅から一駅先にあり、古本屋の近隣に下宿していた学生も多かったので、同じ教授の下にいた生徒さんと、こうやって本を通じて出会えてもおかしくはなかった。

10年以上前の鬱屈を舐めて暮らしていたようなどうしようもない学生だった頃の私と、あれから10年、専攻の芸術や思想のことにかまける暇もなく生活に追われ続け、結果疲れ果てて一介の主婦になろうとしている私が、一冊の付箋まみれの本を通じて突然に出会う。
こんな不思議な磁場の狂いみたいな事態に、新居から徒歩10分もかからない場所で遭遇できたことが嬉しくて仕方がない。私のこれからの日々が、そこまで悪いものにはならないよと示唆されているかのような気分にすらなる。これから大きな事業を始めるといったような壮大な展望に満ちた展開は起こらないけれど、ちょっと古本屋さんに行って、ちょっと本たちと触れ合って、ちょっと幸せになる余地は全然あるんだぜ、安心しなと言われているような気分に。

自分の本を売りに行く場所の偵察がてらに訪れた古本屋で、まあ言うても豆電球一個分ぐらいではあるがささやかな希望の明かりを、私は唐突に本に教えられた。私が本を所有することをやめられないのは、先述の通り、本を通じて自分の思考や感性がきちんと生きていることを確かめたかったからだった。
そうやって本の存在を愛おしむ行為は、決して間違っていなかったのだと思う。「本を売る場所を探しに来たはずだったのに、また欲しい本ができちゃった」と、文庫本を2冊古本屋のレジカウンターに持っていってさも機嫌良さげな私は、そうでなくっちゃ有り得ない。

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