ヘタレな自分を見つめる
汁なし担々麺。
汁ありにしてしまった私はヘタレである。
ここ2年。新しい環境に身を置いている。今、3年目。
この2年間、何かできるって思っていたけれど、何にもできていないように思えている。
思ったよりもできない自分。
って思うけれど、それって自分はできると持っているから、そう思っていることに気づく。
ヘタレなのに、ヘタレじゃないフリをしているんだな、ということにも気づく。
もう、ヘタレな自分よ、ヘタレであることは露わになっているのである。
観念しろ、ヘタレな自分。
最近よく聞く曲は、羊文学「more than words」。Extremeの方ではなくて。
「正解を選ぶのが楽になって」
という歌詞があるけれど、私は正解がないのに正解を探そうとする。
正解かどうかわからないから、やらない。
行動に繋がらない。
正しい答えを求めようとしてしまうから、正しいか分らないと、動けない。
動き方すら、正しいのかどうか、という思考に囚われるから、動くことができない。
子どもには「正解不正解なんてない」とか「やってみなくては分らない」って声をかけているのに、自分はやらない。
娘よ、ごめん。
動けない自分は自分のせいなのに、何かのせいにしている。
〇〇のせい、何かがあるから、やりたいことができない、やりたいようにやれない。
そんな言い訳を重ねている。
できる自分が頭の中にいる。
一方で、何にもできない自分も頭の中にいる。
自分の有能感と劣等感の同居。
とても疲れる。
プラスとマイナス(どちらがどっちか分らんけど)、お互いの力が強いから、疲れる。でも相殺されて、残る結果は「ゼロ」。
なんのコントをしているのか。
できるフリの自分。できない自分のフリ。
そもそも「できる」ってなんだよ。
いつまで、誰かの何かの基準、幻想である正解を求めるのか。
そうやって、うだうだしているのが、「楽」なんだと思う。
今の状況が「しんどい」「辛い」と思っていても、実はそれが楽なんだと思う。
変わらなくていいから。
しんどいな、と思っている状況は実は楽。confort zoneにいる。
しんどい、大変だって言っていれば、変えなくて済むから楽。
誰かの期待に応えることに注力していたんじゃ、自分は自分の人生を引き受けていることにはならないのではないか。
誰かのために、ということを盾にして、自分はどうしたいのか?を放棄する。
つまりは、自分の人生を生きる責任を放棄することにもなるんじゃないか。
私はどう生きたいのか、在りたいのか。仕事も家庭も、いろいろあるけれど、いったい自分は何を大切にして生きたいのか。
それを軸にして、今の仕事、家庭に向き合いたい。
今更ながらだけど、下半期の私のテーマは「out of confort zone」。
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