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夏至のあと

約1ヶ月近く。
書くこと、自分に問うことを避けてきた。

「問い」を問い、自分にも問うて欲しいと思って哲学対話を開催しているのに、
私は自分に問えずにいた。

それは、なぜか。

昨日、私が毎月大切にしているグループコーチングの日。
参加者が1ヶ月を振り返り、次の1ヶ月の目標を立てる。
自分だけでなく、参加者の振り返りや目標設定が自分の学びになる。
他者の問いが、自分の問いにつながる。

講座が終わる数分前、ふと、なぜ自分は約1ヶ月にわたり「書くこと」から遠かったのだろうか、という問いが頭をよぎった。

私にとって「書く」ことは、自分の内面を掘り、自分とつながる行為であり、同時に自分のドロドロや情けなさ、見たくないものを発見する行為でもある。

今年に入り、よく書いた。
書いては手放し、また書いては手放す。

もしかしたら、私はこの作業にくたびれたのかもしれない。
自分の情けなさや恐れに向き合うことへの疲労。

今朝、一旦そこに着地した。
違うかもしれないけれど。

半年間を振り返ると、行動したこともあるし、しなかったこともある。
新しいことを始めることへの怖さがある。
でも、やらない方が怖いとも思う。

自分に両方あることを「問い」、「書く」ことで改めて気づく。
昨日、信頼できる場で他者と共に問う時間が再び「問い」「書く」ことができるよう、救ってくれたと感じる。

一人で問う。他者と共に問う。
自分が哲学対話を開催する意味にも繋がっていると感じた。



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