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言葉は音  #ことば展覧会

こ林さんに、自分が書いた詩を朗読してもらった。

書いたのは、この夏。めずらしく、見直しも手直しも、ほとんどしなかったものだ。書いたということだけで満足した。


私は、胸に傷がある。両胸を除去した名残りだ。気にしていない。手術後半年して、もとの自分の精神状態に戻ってからは、何度も、自分の胸のことを冗談にしてきた。

失ったものは乳首。それから、胸の感覚。神経が通ってないので、何も感じない。乳房再建の準備をする3ヶ月のあいだ、胸に何度か注射針をたてられたが、平気だった。

得たものは、生まれつきよりデカい胸。が、別に望んでも、憧れてもいなかった。ほんとうに。私は自分の、いわゆる貧乳が好きだった。走る時も揺れなくて便利だし、ブラジャーもいらなかった。実際、していなかった期間の方が長い。思春期の女性の胸の大きさは、知能に比例するとどこかで読んでからは、大きくならないことさえ、願っていた。

巨乳というほどではない。でも、再建後、シャツやブラウスのサイズが、胸のせいで、ひとつ上でないと、着られなくなった。ブラを初めて、試着で買いに行ったとき、Cカップだと言われた。

胸が、思いがけず大きくなったのは、整形外科医のまちがいのせいだ。もともと私は、乳房再建も、どうでもいい気がしていた。でも、両胸全摘出の際の同時再建に応じていたし、そうしていなかったら、手術後の私は、もっとおかしくなっていたとも思う。

胸を作り直すには、除去した胸を拡げて大きくしなければならない。それが、レンガを入れているように不快だった。私は、4、5回かかる豊胸用の準備の、2回目でギブアップした。もう、この大きさでいいと。

整形外科医は、まじめな職人のようでもあり、芸術家のようだった。医者は、上半身裸の私を立たせ、デッサンするアーティストのように、指で構図をとる。身長や体の形に合うのは、このサイズなんだが、と言う。豊胸手術の患者は、たいてい、自分がすすめるより大きいサイズを望むのにと、私の要望を不思議がった。

医者と私は、シリコンのサイズと形、手術日を決め、私は再建手術を受けた。縫い合わせるのに、思いがけなく時間がかかったと聞いた。

そして、術後一週間後に診てもらった時、医者は、間違いに気づく。合意したシリコン容量は、もっと小さいはずだった。私の胸に入っているサイズは、それより100CC以上大きい。医者は、無意識に、自分が理想的だと思うサイズを選んでいたのだ。

この話をすると、みんな笑った。訴訟ものだね、と。女の聞き手は、うらやましい、とか、よかったね、と言う人もいた。大きい胸に憧れたことのない私には、そういう気持ちはわからないが、こんな話でいっしょに笑えるのは、楽しかった。



でも、胸のことで、自分にちょっと驚くことがあった。ほんとうに平気で、ほんとうにどうでもいいと思っている胸が、もしかしたら、自分はすごく気になっているのかと。肩まで上がらない腕のリハビリのために、それこそ毎日のように、プールに通いだした頃。

泳いだあと、水着を脱ぎシャワーを浴びる。髪から頰を伝うシャワーの湯を、時々、より温かく感じた。そして、気がついた。涙が出ていると。うろたえた。自分で気がつかない、肉体の反応に。今まで、ずっと気がついていなかったことに。そして、どうして涙が出るのかわからないことに。

それから私は、シャワールームで頭に湯がかかると、泣くようになった。条件反射のように。でも、髪や体をタオルで拭くときには、もう平気だった。ふだんのとおり。無理もせず。

どうしてかわからないが涙が出る、その場面でだけ。裸だから?人が見ていないところだから?シャワーの水音で、声を漏れ聞かれないから?ほんとうは消失を深く悲しんでいる?

その時のわたしは、わからないままにしておいた。名前をつけたり、自分にわかる理由を考えたりはしなかった。今もわからないし、どうでもいい。ただ、その時のわたしは、いつもそうだった。




noteで、書くことを楽しみ始めたこの夏、それを書いてみた。かたな傷、という言葉を使ってみたかった。こだわりはそれだけだった。いつも何度もする見直しや手直しをする気にならなかったのは、シャワールームで、わからないまま泣いていた気持ちと、通じるものがあるのかもしれない。それを、そのままにしていた気持ちと。



こ林さんが、その詩を朗読してくれた。彼女の情感ある読み方に、書いた本人ではあるが、または、本人だからか、私は涙した。朗読しているこの人が、胸に傷のある人ではないのか、という気さえした。


声の力。声がくれる、言葉への息づかい。声がくれる、言葉への生。


わたしは、詩と呼ばれるものに、声から入った。朗読会、舞台芸術やライブ演奏。その場でしか経験できないものに強く惹かれてきた。そういう、色々なことを思い出した。そして、自分の詩を、だれかが、それも、こ林さんのような読み手に朗読してもらえたことを、ありがたく思った。

この詩を読んでほしいと思ったのは、自分でこれを朗読するのは無理だと思ったからだ。自分では読みきれない。まだ、やっぱり涙になる、声にすると。


わたしのシャワールームの涙は、書いて詩にしたとき、葬られた気がした。そして、その言葉に音をもらったとき、成仏した気がした。自分では、きっと声にのせきれない詩を、こんな形で聞かせてもらえた。胸に傷があることのおかげなのだとしたら、パラドックスめいているが、幸運な気さえする。

今はただ、ありがとう、という言葉しか浮かばない。



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読み手の、こ林さん。

こ林さんの書く記事からは、彼女の真摯さや、生きることを真正面から考えるところに、圧倒もされ、刺激を受けます。彼女が、人が書いたものの芯を見極め、あんなに情感込められるのは、そういう姿勢のせいでもあるのかなと思います。声は、もちろん、すてきです。(お聞きのとおり。)

わたしは、こ林さんのことを、kesun4さんから知りました。おふたりとも、ありがとう。



自分の作品の朗読を?興味を持たれた方は、こちらに。


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そして、この記事は、この企画への参加です。



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