見出し画像

レトリックと人生

2回目のnoteです。今回は普段ぼーっと考えているようなとりとめのない話を書いてみようと思います。書くために書く。


以前勤めていた会社の同僚に勧められた『レトリックと人生』という本を読んだ(原題は『Metaphors We Live by』なので邦題のニュアンスはちょっと違いますが、それはそれで情感があって好きです)
著者は言語学者のジョージ・レイコフと哲学者のマーク・ジョンソン。

メタファーやレトリックというと、一般的には何かを表現する際の上手い言い方やテクニックのように言われるけれども、実はメタファーを通じて人は何かを理解し、それが行動や思考に影響を与えているのだ、という話。



例えば、時間を浪費する、時間を節約する、といった表現は、時は金なり(Time is money)というメタファーに下支えされている。
そしてそのような体系化された言葉によって、時間は使うもので、限りがあり、貴重であり、無駄遣いしてはいけない・・といったイメージが定着してくる。それは体験に紐づくものでもある(人生における時間が無限である、という人が仮にいるならばこの体系は成立しない)
もっといえば、このメタファーを通して、時間は使ったり、節約したり、奪われたり、持て余したりできるものであると理解され、そのように経験されているといえる。

仕事をしている上で、一番よく使われるのは戦争のメタファーかもしれない。
戦略や戦術、ターゲット、兵站・・などなど、戦争で使われる語彙はそのままビジネスで使われている。
僕もよく使うし、これらの語彙なしでは仕事で何かを語ることすら難しいと思う。それは戦争とビジネスがある部分で似た構造を持っているからで、まさにその構造をもとにビジネスを理解しているからだと思う。


けれども当然時間はお金ではないし、ビジネスは戦争ではない。Time is moneyというメタファーによって、人は時間というもののある側面を理解することができるけれど、同時にその価値体系に含まれない側面は見えづらくなってしまう。


言葉は、もっといえば何かに名前をつけるということは、これまで見えなかった問題を見える(これもメタファーだ。I see.)ようにしたり、理解できるようにするけれど、同時にその概念に当てはまらないさまざまな要素を切り捨ててしまう。
言葉は額縁のようなものだ、とよく思う。それでいてその額縁は、使い手や受け手や場所や文脈にそって、アメーバのように絶えず変化をし続けるのだからややこしい。


ただ、日常の中ではその事実を一旦は意識の外に置いて生きている。というか、意識しすぎていたらまともに会話さえできないだろうと思う。

起きたことや見えた物、感じたことについて、さもそう呼ぶのが当たり前のように語っている自分に気がついてなんとも居心地の悪い思いをすることもよくある。

Auvers-sur-Oiseのどこか

その意味では最近、子どもたち(主に自分の甥っ子や姪っ子)と話すのが楽しい。彼らと話していると、具体例が思いつかないので、抽象的な言い方しかできないけれど「本当はそうであってもよかったのに、単にそうではない」ことに気付かされる。大人たちにとって当然であることは子供にとってはそうではない。ただ、誰かに教わらなくても、子供たちは立派に考えることができる。そしてもっている言葉を総動員して、自分の疑問や考えを伝える。それは額縁を外し、物の見方をすこしだけ自由にしてくれる気がする。

昔僕が非常に尊敬している哲学の先生が言っていたことだけれど、「わからない」「知らない」ということはなんて気持ちが良いのだろう、と思います。
人間は根本的に無知であり、知っていることより知らないことの方がはるかに多い。そう思うとなんだかいい気分になる。


以上、特にオチのない話でした。
夏も盛りですね。皆様ご自愛くださいませ。今年は海で泳げるかなあ。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?