ふとした瞬間に起きること
ある日の出来事
家族と暮らしていると「ちょっと話しにくいこと」というのがときおり起こる。自分のことだったり、子どものことだったり、お金のことだったり。話さなきゃと思ってるんだけど、なかなか切り出しにくいし、聞きにくい。
だけど、あるとき「ちょっと話しにくいこと」についての話題が、口をついて出ることがある。
それがどんなときかというと、なにかの拍子にできる、「ちょっとだけ一緒にいる時間」だったりする。休日の朝に子どもが起きてくる前の時間だったり、リモートワークの僕がゴミ捨てに向かい、出勤する妻が同じ方向の駐車場に向かって並んで歩く時だったり。
そのとき、ふと、「あのことだけどさ」という一言が漏れ出る。
その時なにが起きていたのだろう
話す側はなにかに背中を押されてるのだろうか? 聞く側は、「あ、来た」とちょっと身構える。自分が両方の立場になりうる。話し始めると、バーっと話が止まらない。聞く側だと、「話してくれてよかった」と安堵する。
いままで話し出せなくて、そのなかでも「話さなくちゃ、でも」と逡巡してた時間と、話し出した時間の違いって何なんだろう。
違いとか理由とかがあるとは思えなくて、「なんとなくそんな空気」としか、言いようがない。相手にも、「なんで話してくれたの?」と野暮なことは聞かない。明確な答えはないのだろうし、それを聞くことで、「なんとなくそんな空気」を事後的に壊すことになりそうだから。
かけられる声がひとつだけあるとしたら、「話せてよかった」「話してくれてありがとう」だけだと思う。
積み重なった時間と、導火線としての「その時」
違いとか理由はないのけど、積み重なってきた時間という「歴史」はあるかもしれない。「話さなくちゃ、でも」という逡巡の積み重ねが、「歴史」を紡ぐ。
いっけん無為に見える逡巡だけど、そうではないのだろう。そういう時間が地層として積み重なって、それが歴史になって、なにかのきっかけで導火線に火がついて、話が始まる。
話が始まった瞬間、導火線に火がついた瞬間を、事後的に「その時」と呼んでいるだけなのかもしれない。
最後に背中を押す、「すきま時間」
でもだからといって、「歴史をこしらえて、導火線を持ってきて」って前から順にやってるわけではない。ここに書く時点で、「あくまで結果論として」という、注釈付きの後付けなのだ。
話し始めたあとは、「なんでいままで話せなかったんだろう」と結果論で思い返す。でも、そういうものなんだと思う。それでいいんだと思う。
そういう「アンコントローラブルだけど結果につながる」導火線に火をつけるのに、最後のひと押しとして、「すきま時間」が必要なんだと思う。
なにかの拍子にできる、ちょっとだけ一緒にいる時間。
「コミュニケーション」という言葉を使わない
「リモートワークでコミュニケーションが」という相談を、仕事柄よく受ける。そういうときにいつも紹介するのが、「リモートワークで失われがちな4つのコミュニケーション」だ。
そして、コミュニケーションについて相談されたときに気をつけていることは、「コミュニケーション」という言葉を使わないことだ。
ちゃんと分解する。自分たちがコミュニケーションと呼んでいるもののうち、何が足りてないから、何をどう補うのか。そこの原因分析を飛ばして、すぐ打ち手に飛びつく人をたくさん見るし、自分もそうならないように気をつけている。
今回、「ちょっと話しにくいこと」を「あのことだけどさ」と切り出させてくれた「ちょっとだけ一緒にいる時間」を振り返って、あらためて意味づけようとしたのは、すきま時間という「コミュニケーションを分解したときのひとつのパーツ」を知っていたからだ、と実感している。
「ちょっと話しにくいこと」を「あのことだけどさ」と切り出させてくれた最後のひと押しを、すきま時間と認識できたことで、これから似たようなことが起きたときに、焦らずに逡巡を重ねたり、焦らずに相手を待つことができる。
リモートワークだろうと、家族との関係だろうと、すきま時間の意義は変わらない。「コミュニケーション」をちゃんと分解して、目には見えにくいけど確たる役割を果たしているすきま時間を、作り、そして大切にする。コミュニケーションを改善していくための、一つの道筋だと思った。
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