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私が人材育成の仕事をやっていて良かったなと感じる瞬間

「赤坂さんは、この仕事やっていて、どんなときに楽しいなって感じるんですか?」

私が育てる側だとしたときの「育てられる側にあたる人」であったり、あるいは、私がこういう仕事をしていると紹介したときの「異業種の人」から聞かれることのある質問です。

自分の仕事について発信している割には、あらためて、面と向かって聞かれると、一瞬考え込んでしまう問いです。

「たしかに、私は何が楽しくてこの仕事やってるんだっけ?」




そんななか、最近、「あ、これかな」と自分のなかでしっくりくる出来事がありました。

以前私が育てる側として関わって、いまバリバリと活躍している人が、私のいない場で「仕事で大切しているのは、●●という考え方。それを教えてくれたのは、赤坂さんです」と話していたというのを、人づてに聞きました。

この言葉を聞いたときに、「たしかに、私は何が楽しくてこの仕事やってるんだっけ?」という問いに、カチッと音がしてはまる感覚がありました。

自分の考えた企画が通ることも嬉しいし、目の前の面談相手が明るい顔になるのも嬉しい。どれも、この仕事をやっていて良かったなと思う瞬間です。でも、「〈それ〉のためにやっているのか?」と問われると、なんかちょっと違う感じ。

こんな具合に《カチッと音がしてはまる感覚》がなかったゆえに、「赤坂さんは、この仕事やっていて、どんなときに楽しいなって感じるんですか?」という問いには、一瞬考え込んでしまっていました。

でも、間接的に届いた彼の言葉から、こんな答えが自分の中に降りてきました。

「私の関わった人が、私のことを忘れるくらい時間が経ったあと、うまくいったときやうまくいかなかった時に、私がかつて伝えたことを思い出してくれること」

《私の関わった》彼/彼女は、《私のことを忘れるくらい時間が経》つなかで、その人自身の経験を積み重ねている。それは、紛れもなくその人自身の時間。すなわち、その時間のなかで起きる成功も失敗も、すべてその人自身のもの。そこに私はいないし、私は何も寄与していない。でも、その人がふと振り返ったときに、《私がかつて伝えたこと》がおぼろげながらその人の意識に上ってくれたのなら、私とその人の関わりが、その人にとってなにかしら意味のあることだったと、私には感じられる。もちろん、その人も同じように感じてくれたら、私は嬉しい。




いったん《カチッと音がしてはまる感覚》を得られると、過去に似たような場面があったことを思い出しました。

屋宜:(略)そういえば、自分が新人研修中に赤坂さんにレビューを依頼したらボコボコにされて。いつまでに直すか聞かれたときに、とりあえず「明日です」って言ったら、「なんで今日できないことが明日になったらできるようになるの?」って返されて(笑)

(引用注:赤坂の発言)
ーー …そんなこと言ったかな(笑)些細なことも言われた側は覚えているということですね。

屋宜:確かに言いましたよ(笑)その時に理由を聞かれて「ないです」と答えたら「言ったことは約束なんだから、根拠のない約束はしちゃいけないよ。ちゃんと考えて、できる約束をしよう。」と言われて、赤坂さんすごいとなりました。この話を新人にすると新人たちは笑うんですよ。だけど、「いやいや、今の君たちも同じだからね」って。

一同:(笑)

フューチャーの新人研修を通じて研修リーダーが感じたこと。今後のキャリアの変化に迫る』より

《私がかつて伝えたこと》が、伝えた側も伝えられた側もすっかり忘れた頃に、伝えられた側の口からもう一度話される瞬間。こういう場に立ち会えたとき、「ああ、この仕事やっていて良かったな」と躊躇なく言える自分がいます。

客観的事実だけを見れば、《その時間のなかで起きる成功も失敗も、すべてその人自身のもの。そこに私はいないし、私は何も寄与していない》わけです。でも、《私とその人の関わりが、その人にとってなにかしら意味のあることだったと、私には感じられる》瞬間が、私の中にはあります。そういった、時系列や因果関係が溶けてなくなったところ(≒人事評価や市場価値といったモノサシでは測れないところ)で、私は自分の仕事の意義を見出しているのかもしれません。

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