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私たちは、AIに超えられたと認めるのだろうか?認めたいだろうか?

2017年4月15日にFacebookに投稿したもの。
いつか触れることになりそうな内容なので、こちらにも転載しておく。

人間が認識しておかなければならないのは、こういったモノは人間が使えるツールであって、われわれがやってきたことにとって代わる、完全に代替するものではないということです。

例えば、100年前には、「カリフォルニアから日本に10時間以内に移動する手段」は不可能という結論でしたが、今や、それに関してはシンギュラリティは達成されています。でも、人間の限界を超える輸送手段は登場しましたが、人間の生き方や生活の他の側面にこれが影響を与えているわけではありません。ですからシンギュラリティについても、「特定の課題は解決するが万能ではない」という捉え方ができると思います。

「AIは人間を超えるか?」という問いは、その問いを発している本人が思っている以上に、実に多義的だ。

「超える」「超えない」という二者択一、さらにはもっとセンセーショナルに「超えるのはいつか」という単純化・劇場化された議論が並び、人々を煽るような風潮がある。主語がAIになっているのが混乱のもとだと思う。主語を人間(私たち)に引き戻す。「私たちは、AIに超えられたと認めるのだろうか?認めたいだろうか?」こうすると、問いは技術や雇用の位相から、哲学のそれへと移る。

私たち人間は(AIという新たな登場人物とくらべて)いかなる存在か、という存在論。いかなる存在であるべきか、という道徳論。そして、いかなる存在でありたいか、という幸福論。人間はこういった問いを扱うときに、神という登場人物を媒介や映し鏡にしてきた。だから宗教のなかにはこういった問いと、それに対する答え(のようなもの)が散りばめられている。宗教は多くの人を救ってきた。人間はおそらく、こういった問いを考えずにはいられない、そういう性分を持った動物なのだと思う。逆に言うと、その性分を満たすための補助線として、なにかをこしらえずにはいられない動物とも。それが自身の救いにつながるから。

「AIが神になる」なんて言うと、それこそシンギュラリティ信奉のように聞こえるけれども、僕はこの記事のように、シンギュラリティなんて眉唾だと思ってる。ただし、〈人間が自身の救いのための補助線としてこしらえるもの〉という意味においては、「AIが神になる」と思ってる。主体はあくまで人間だ。

「AIは人間を超えるか?」という問いが多義的であるもう1つの理由は、この問いの字義的な主体(暗黙的な主体が「私たち人間」であることは前述のとおり)である「AI」という言葉の指すものが、時代によって揺らいでいて、その当時の人間の恣意的な解釈に拠っているという点にある。

電車に乗ろうと改札を通るとき、Suicaをピッとやる。このなかにAIが登場していると思う人はどれだけいるだろう。「Suicaの自動改札はAIか?」と言い換えてもいい。Suica登場前であれば「日本全国の駅間の乗車料金が瞬時に計算される」ことに、多かれ少なかれ〈知能〉を感じる人がいたのではないだろうか。なにしろ、最も知能(≒賢さ)を有しているはずの人間ができないことをやってのけているのだから。今と、Suica登場前で、〈知能〉に対する意味合いが変わっているのはなぜか。変わったのは〈知能〉の側ではなくて、人間の側だ。〈最も賢い存在であるはずの人間ができないこと〉あるいは〈最も賢い存在であるはずの人間にしかできないこと〉を人間以外がやってのけたとき、人間はそこに〈知能〉を感じ取る。と同時に、軽い恐怖も覚える。自分の大切な領域を侵食された気がするから。

侵食という恐怖を感じた人間が取る反応には2種類ある。ひとつは、「このままでは人間がAIに乗っ取られる!」という〈下克上〉派。もうひとつは、「人間の知能とは実はもっと深淵なもので、今回AIが成し遂げた領域は小さく浅いものにすぎない」という〈(知能が指すものの)再定義〉派。前者は言うまでもなくいわゆるシンギュラリティ信奉だ。一方で後者は、AIという映し鏡を通した人間の再定義につながっており、極めて哲学的な態度だ。ただ私たち人間がその〈再定義〉を苦々しく思うのは、それが人間の陣地が狭くなる一方の後ろ向きなものだから。AIができることを人間もできるようになって、「これで人間の陣地が広がった!」と雄叫びをあげた人はどれだけいるだろう。

『機械より人間らしくなれるか』という本ではこの〈再定義〉を〈人間の知能の、永遠の退却戦〉と表現していた。(僕が大好きな表現だ。僕はAIを〈哲学への工学的アプローチ〉だと思ってるのだけど、その立場から書かれた本としてこれは抜群に面白い!人間と機械の間での、人間性を巡る倒錯がこれでもかと突きつけられる)

〈退却戦〉とは、言うまでもなく、人間とAIの間での〈知能〉という境界線による陣取り合戦が繰り広げられること。そう、〈知能〉が指すものが変質し、それによって定義されるAI(人工〈知能〉)も変質する。AIとは時代相対的な概念に過ぎず、それゆえ「AIは人間を超えるか?」という問い自体も時代相対的なものになる。かつ、人間(のうちの〈再定義〉派)は〈永遠の退却戦〉を挑むわけだから、AIが勝ち名乗りをあげる日は来ない。

いやいや、〈永遠の退却戦〉と言っても、これ以上後ろに下がれなくなるときがあるだろうから、そうなったらAIの勝利なのでは?という疑問が湧いたら、ひとつめの議論に戻るといい。「私たちは、AIに超えられたと認めるのだろうか?認めたいだろうか?」主体はいつも人間。

〈下克上〉派はどこに行った?という疑問もあるだろう。彼らは「勝つか負けるか」「勝つためには」ではなく、「負けたあとのこと」に焦点している。「人間がAIに乗っ取られたあとの世界で、私たち人間はどうしていけばいいのだ」と。ここでも主体が人間になっている。これが人間の性なのだと思う。

「AIは人間を超えるか?」という問いは、その問いを発している本人が思っている以上に、実に多義的だ。この問いに、答えという終着駅を見出すことにあまり意味はない。そうではなくて、永遠の通過駅として問い続けることが、私たち人間にとっての豊穣につながるのだと思う。

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