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インク溜まりと悪心

いや前回の記事の続きを更新しなよ、
と冷静な私が説く。

けれど、じわじわと波紋を打つ情動を、
どうにか昇華したいと言いくるめて
こうして筆を執っているわけだが。

これを書いているさ中、
書き終えた瞬間を想像しては酷く空恐ろしさを覚える。

それでも書くことに意味を見出したい。
書き終えた先に見える空気に包まれたい。

窓辺の光が、優しすぎて泣けてくる。

窓辺にて

フリーのライターとして活動している市川茂巳。
彼の妻である紗衣は、彼女が編集として担当している小説家と不倫をしており、
市川自身もそれに気づいている。
だが彼は、彼の抱いた感情とともにそれを誰にも打ち明けられずにいた。
そんな折、高校生作家である久保留亜の文学賞授賞式に訪れた市川に、
留亜は「小説のモデルに会ってみたいか」と持ち掛ける。
彼女の申し出に、いるのなら会いたい、と答える市川。
市川と彼女、彼の周りを取り巻く環境から、彼が見出した「燻る感情の本質」とは。

あらゆる記事のあらすじを読んだのちに
いざ自分が書いたものを読み返すと
自身の言葉に自身を持てなくなるのは、
記憶の保持が時間を追うごとにできなくなるから。

だからこそ、こうして一刻も早くと、
可視化し、モノ、として現存させておきたくなる。

それは何処か、自身が持ちえた感情への独占欲にも捉えられる。

映画を見て、動いた心は自らのものでしかないからだ。

書く行為に見出す陽だまり


今回登場する人物も、
市川を筆頭として「綴る」行為を
日常の一部に落とし込んでいる。

彼らの感じ得た本質は、
書く行為の中でどう昇華されているのか。

それを知ることはできない。
慮ることで勝手な想像を巡らせることしかできない。

ならばそのもどかしさに、
快い悪心を感じてみるのはどうだろう。

分からない、を無理に
知ろう、共感しよう、とするのではなく
「これは憶測です」と注意書きをして
書き連ねるのはどうだろう。

言葉にできなくて、
ペンを無意識に押し付けた先にできたインク溜まり。

読み返すときに、つい、手が掠めてしまって
紙や肌を汚してしまうのもいい。

それすらも自分だったものであり、
表出したモノなのである。

自分以外を想い、書くことは、
相手を共感し、肯定する行為ではない。

自分を肯定し、手放す行為なのだ。


パーフェクトなたべもの


劇中には、
市川と留亜がパフェを食べるシーンがある。

「パーフェクトな、という意味であるパルフェが語源となり、
パフェと名付けられた」たべもの。

その実、その物体単体がパーフェクトなのではなく、
食べた後の身体変化や感情をひっくるめて
「完璧」なのではないか、と。

実際、劇中に出てくるパフェは大きく、
綺麗な盛り付けが見受けられ、
洗礼された材料選定・比率なのだろうと鑑みることができる。
(これも、憶測だが。)

しかしそれ単体が完璧なものなのであれば、
きっとわざわざぐちゃぐちゃに崩してまで口に運ぶ必要はない。

食べた後に感じる苦しさ、胃もたれ、悪心と、
同時に感じる満足感、達成感、充足感を纏めて
完璧なのだという。

どこか大食いにも近しいものを感じてしまう。

だが、パフェだからこそ感じ得る「完璧さ」は

その見た目と、
それを崩して食べるという
キュートアグレッションに似たもの、
食べた後の少しの後悔と、
悪心を包括する多幸感に準ずるものなのだと思う。

なるほど確かに。
ここまでの体験は、
完璧なたべものでしか味わえないだろう。

過去の悪心と今の懐古


パフェを食したときに感じ得た体感を、
私たちはじわじわゆっくり時間をかけて、
日常生活で拾い続けている。

人を慮る気持ち、
それをしている自分を客観視したときの感情。

山積みにしたそれらを口にしたとき、
言いようもない激情に呑まれて、
「忘れないようにしよう」と
文字に起こしていく。

喉元過ぎれば熱さを忘れる、とはよく言ったものだが、
手放された思いはこうしてモノとなり、
再び自らの元に戻ってきた。

だからと言って、
私たちはそれを教訓として
行動を省みない。

その愚かささえをもまとめて、
完璧さ、なのだろう。

この記事を書き始めたばかりの私へ。

その感情も総て私だと受け止めればいいよ。

窓辺の月が綺麗です。
これもまた、陽だまりの一片です。





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