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小泉進次郎氏のセクシー発言について

閣僚入りした小泉進次郎氏が話題になっている。もう今は何をしても注目される男というか、これを「時の人」というんですかね。国連で「環境問題のような大きな問題はセクシーに取り組むべきだ」という感じの内容で言ったことが取りざたされて、各方面でネタ的に扱われている。正直、真意と違ったニュアンスで捉えられているのも大きいと思うのだが、見ていると、あながちそうでもないのかなという気もしてくる。
 
僕がよく読むブログがあって、そのブログの人が「小泉進次郎はダメだ」と以前から言っていたので、僕は「そうなのかな?」とずっと思っていた。ダメといっても、何が要因でダメと断ずるのかわからなかった。
 
でも、最近の言動を見ていると、「こういうことかな」と思うことがあった。「中身がない」ということを批判されているのだが、要するに、「何を犠牲にするか」が不明瞭、というか、言っていないのだ、と思った。つまり、「これを犠牲にしてこれをやります」ということを何も言っていないのだ。なんとなく、口当たりのいい、受けのよさそうな言葉を並べているだけなので、中身がなく聞こえてしまう。
 
言い方は悪いけど、小学生の作文みたいな感じ。「戦争をなくせばいい」とか「暴力をなくせばいい」というのは小学生も作文で書くけれど、では現実的な問題はどうやって解決したらいいのか。そういった複雑なことは、もちろん小学生には要求されない。だから別にそれでいいのだけれど、30代も半ばをすぎた政治家(閣僚)がそれを言っているとなると、ちょっとキツいな、と。


しかし「環境大臣」というのはなかなか絶妙な配置だと思う。いや、もし閣僚として入れるのであれば、消去法でそういうところしか入れられないのかもしれないが。
 
政治というのは、究極のところ、「分配」をする行為だと思う。資源やお金というのは有限なので、無尽蔵に使うことができない。だから、なるべく「公平に」分けるように分配するのが政府の役割で、「素人代表」として表に立つのが政治家だ。だから、究極の政治家は、誰かを犠牲にして全体を生かすという決断ができる人だと思う。さもなくば全員死ぬか。その「分配」の主要なところに配置する人は、そういう覚悟がある人でなければならない、と思う。
 
「環境」ってけっこう定義があいまいな概念だと思う。「環境」に正解というものはない。CO2の排出量の取り決めにしたところで、ある意味政治的なカードとして使われているだけであって、仮にCO2の排出量をゼロにしたところで、温暖化が食い止められる保障はないし、実証もできない。「さすがにルールがないとしんどいから決めておきましょう」といった感じで決まったもののように思えるのだ(もちろん根拠は全くないと言っているわけではないが)。そして、それを政治的に利用している。
 
タカ派の人が環境大臣になって「経済活動を大幅に抑えてでも環境保護を優先します」と言い出したら、それはそれで困るわけで。まああまりにもわけのわからないことを言い出す人を据えると、内外から「大丈夫?」と思われるので、弊害はあるけれども。


でも、「小泉進次郎を次期総理に!」とか言っていた人たちも、これで目を覚ますんじゃないですかね。これが安倍総理の狙いだったとしたら、さすがといったところだけれども。

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