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みかんと物体Xと哲学、そして虚数のりんご

小学校の算数は、みかんとりんごの個数を数えるところからはじまる。もっと学校にふつうに置いてあるものの個数を数えたらいいと思うのだが、なぜか太郎くんがみかんとりんごの個数を数えなければならないような状況になり、それを数え始める。小学生にとって、みかんとりんごは想像しやすいものだから、たとえ実物が目の前になくても、なんとか個数を数えることができる。
 
中学校に入ると、「算数」が「数学」に変貌し、急にXとかYとかが出てくる。なんだよXとかYって。しかも、それまでは左側に計算式があって、右側に答えを書くという形式しか存在していなかったくせに、方程式の左側と右側を数字や記号が自由に行き来しはじめるようになる。行き来するに留まらず、同じ数をかけたり、割ったりと、一定のルールに則ってはいるものの、やりたい放題だ。これまで学んできた算数とは、いったいなんだったのか……。

中学生になると急に勉強についてこれない子がいる。特に数学において、それが顕著なのではないか、と思う。「X」「Y」という概念を「のみこめる」か、それがキーポイントなのかな、と最近は思う。「理解」ではない。誰もXとかYとかを理解しているわけではない。これはただの記号だ。
 
考えてみれば、それまでは「みかん」とか「りんご」で計算していたのを、XとかYに置き換えただけだ。どうしてもというのなら、引き続き数学でも「みかん」「りんご」を使い続けてもいい。ただしそれは、非常に抽象度の高いみかんとなる。すなわち、方程式とかが出始めると、急に抽象度があがるので、みかんとかりんごに置き換えただけではどうにもならないことが増えてくる。「マイナス2みかんってなんだよ」という話にどうしてもなる。あるいは、虚数のりんご。
 
数学のセンスって、こういうものを、特に深く追求せずに、「ふうん、なるほど」と使いこなすところかな、と思う。中学生の段階で、XとYがなんなのかを追求し始め、「先生! Xってなんなんですか! 見えないとわからないので持ってきてください!」とか言い出すと、授業が崩壊する。そういう子は、壊滅的に数学的センスがない、といえる。とりあえず、XとかYとかに置き換えりゃいいんだな、それで計算して、答えが出てきたら、よかったですね、と受け入れて、使いこなせるのが「数学力」なのかな、と。
 
僕はわりとそういう意味では理系科目は得意ではなかった。特に化学の、電子とかそのへんがよくわからなかった。もうミクロな世界の話になると、なにせ目に見えない。電気もぜんぜんわからない。なんだよ電気って。ボルトとアンペアの違いも、あまり日常生活で実感することがないから、わからない。というか、これが本当に実感としてわかっている人がどれぐらいいるのか、と思う。
 
でも、世の中は、実感としてわかりにくいことで溢れている。というか、社会の仕組み全般は、実感としてよくわからない。要するに、抽象度が高すぎるのだ。三権分立という概念があって、それで社会の秩序が保たれていると習っても、そんなものが目に見えるわけでもないし、結局よくわからない。社会の仕組みというのは、抽象度という点で哲学や神学とどっこいどっこいだという感覚がある。というか、本質的には同じだとさえ思う。
 
「天皇陛下は日本の象徴」というのもよくわからないが、あれはそのよくわからないものを、なんとなくわかるための助けにはなっているかな、と思う。とりあえず天皇陛下を見て、みんなが声援を送っているさまが、とりあえず日本の象徴なのかな、と。日本の象徴が「X」だったら、そんなものをみんなで共有できるかどうか……。

幼稚園児や小学生に、「X」を理解させるのは難しい。段階的に、大人になるにつれて、抽象的な概念が扱えるようになる。この思考もだいぶ、抽象的なのだけれど……。社会、組織、思考、概念、すべて抽象的だ。抽象的概念を飲み込めるかどうかが、大人と子どもを分かつラインなのかな、と。
 
思うのだが、抽象的思考は、問題解決の道具としてのみ機能する。それについては、また別の機会に。(執筆時間16分45秒)

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