生きている人のために
最近、友人と話をしていて、座右の銘の話になり、「最近、とりあえず毎日、『どうせみんな死ぬから』って思うようにしてるんだよね」と話したら、「病んでるの?」と真顔で返された。なんか心配になったのだろう。話している僕はというと、いたって笑顔である。
「どうせみんな死ぬ」。確かにインパクトが強いかもしれない。しかし、これは単なる事実だ。僕を含め、この文章を読んでいるあなたも、身の回りにいる人々も、100年後は物理的に死んでいる可能性が高い。もし仮に100年では死ななくても、太陽はいずれ寿命を迎えるから、未来永劫生存し続けることは難しいはずだ。
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死ねば、お金持ちも貧乏人も関係ない。成功者も失敗者も同じだ。つまり、ゼロになる。こう言うとよく「歴史に名を残す」ことなどを口にする人もいるが、歴史に名が残る人物なんてほんの一握りだし、歴史に名が残っていいことなんて何かあるだろうか。どうせ本人は死んでいるのに。
死んで何年も経てば、「その人のことをよく知っている人」もどんどん死んでいき、最終的には全員死ぬ。その人を知っている人がいなくなるわけだ。であれば、おそらくその人は神格化されるなり、名だけが形骸的に残るなりして、とにかく原型を留めない形として現世に留まる。その姿はきっと、本人が見れば「え、これが俺?」という感じになるのだろう。
僕が毎日思う、「どうせみんな死ぬから」は、実は悲観的、二ヒリスティックな意味ではない。みんないずれ死ぬ、という事実の確認だ。どうせみんな死ぬけれど、とりあえず今は生きている、だから今日も頑張って、楽しく生きよう、ということなのだ。じつはそれなりに前向きな気持ちでこれを念じているのである。
お金を溜め込んで老後に備えても、どうせ死ぬから、意味なんてない。身体が動かなくなってからお金を使おうと思っても手遅れだ。だからといって、宵越しの金は持たないとばかりに散財していれば、貧乏で健康を崩してしまうなり、借金で首がまわらなくなるなりして、これまた人生の謳歌に支障をきたす。もちろん貯金が趣味だったり、ギャンブルで破滅するのが本望だったらそれでも構わない。しかし、人生は一回しかないし、いつかはみんな死ぬのだから、いまを存分に「生きよう」、とこう思うのである。
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「○○はこうあるべき」みたいな論調や、社会の圧力などがあるが、ことごとくがくだらないな、と思う。どうせみんな死ぬのに。それ自体が人生の謳歌に必要ならばすればいい。しかしそうでないなら、それを必ずしもしなくてはならない事情はあるのだろうか。
もちろん、自分たちはいずれ死ぬから、次の世代にバトンを渡す必要があり、その義務がある。なんでも自分の好き放題にしていいわけではない。
しかし、世界は「生きている人のためにある」と僕は思う。もしいつか、遠い未来に、いよいよ地球が立ちいかなくなったら、すべての人間が子どもを産むことをやめて、静かに滅んでいく……。例えばそんなことも考える。最後の人間が、最後の瞬間まで、生を全うできることを祈って。(執筆時間12分29秒)
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